見出し画像

震災から9年、忘れない からその先へ

「震災を忘れない」「あの日を忘れない」
3月11日が近づくと、毎年各メディアを通してこんな言葉を多く耳にする。でも「忘れない」ってなんだかずいぶんアバウトな言葉だなと思う。

あの日にあったことを忘れない、あの地震を、大津波を、原発事故を、亡くなった方々を、残された人々の悲しみを。
「忘れない」をこうやって言葉にするのは簡単だ。
でもその言葉の奥に隠れた数多の死や悲しみの全てを、私は知ることはできないし、仮に知ったとして、その全てを理解することもできないだろう。そうと分かっていても私たちは繰り返し、あの日のことを忘れまいとする。またある人は覚えていてほしいと言う。

私は、この「忘れない3.11」を、ただ単に震災の記憶を思い出すための一日ではなく、「あの日、救えなかった命や失ったもの、そしてその後悔や無念を『繰り返さない』ためのきっかけとなる一日」として、捉える事にしたい。


私は小学校二年生の時に震災を東京で体験し、その後親の転勤で、小学校五年生から中学校三年生までの五年間を宮城県仙台市で過ごした。
住んでいたのは仙台でも都市部の方で、地震による被害も停電だけに留まっていた地域だったため、日常的に災害被災を意識することはなかったが、テレビでは(特に最初の方は)いつでも震災の話題が流れていたし、親の職業上、津波被害の残る沿岸部に連れていかれることも多かった。
瓦礫が多く残る、かつては人々の営みがあったであろう被災地の風景は、あの日に東京の家のテレビで見ていた“震災”というものが、目を逸らすことのできない現実として迫ってきたようだった。

そうした日々の中で“震災”は当たり前のように常に私達のそばにあった。
毎年開かれる震災式典。学校で配られる「震災を忘れないために」の副読本。
毎日のようにテレビに流れる「震災」「復興」「希望」の二文字。津波に流された我が子のことを涙ながらに教えてくれた釜石の夫婦。教え子を津波で亡くしたという先生。停電を得意げに話す友達。報道カメラマンとして家庭を顧みずに被災地を追いかけ続ける父。私も合唱部の一人として、式典で復興ソングを何度も歌った。

中学校二年生、その年の3月11日も、地元の合唱部の一つとして市内の商店街で復興ソングを歌うことになっていた。当時部長を務めていた私は合唱の前に読み上げる震災復興への言葉を任されていたが、いざ原稿を書こうとして筆が止まってしまった。
私はいったい自分がどんな立場でこの“震災”に向き合えばいいのか、どんな気持ちでどんな言葉を書けばいいのか、全く分からなくなってしまっていた。 被災地での震災を知らない私が発する言葉はどうしたってうすっぺらくなってしまうような気がしてならなかった。

これまで散々希望を復興をと口にし、歌ってきたけれど。でも私、津波、経験してないんですよ。地震、東京も揺れたけど、とても宮城ほどじゃないです。あの日も東京で、煌々と輝く電気の下で津波の映像をただ見てただけなんです。そんな自分が、一体震災の何を語れるというんだろう。
悩んだ末先生に相談し、震災当時も仙台に住んでいた他の部員に代わってもらった。その友達は、あの日の停電の様子を織り交ぜながら、しっかりと震災復興の言葉を述べた。

その後はなんとなく震災のニュースを見るのも辛く、できるだけ避けるようになった。震災報道を続ける父とも激しくぶつかり、もやもやした気持ちを消化できないまま、進学のため高校に上がるタイミングで母と二人、東京に戻った。

そんな時に出会ったのが最果タヒさんという詩人の、ある詩だった。
その詩の中に

『しんだひとに近しいひとほど、口をつぐむ。えいえんの沈黙を中央にして。 』

という一節がある。
もちろん、全ての人に言えるわけはない。が、私自身祖父の死や父の先妻との死別などを通してそういった似たような経験があったので、この言葉にはっとした。

何かを失った時、どんなに辛く苦しくても、前を向いていなくてはどうにもならないこともある。時間は必ずしも傷を癒してくれる訳ではなく、癒えない傷を抱えながら、それでも生きていかなくてはならない時もある。
当事者が辛く苦しい記憶と向き合い続けるのは決して簡単なことではない。だから、死に近しい人ほど口を噤む。というのはごく自然なことなのだと思う。
喪失の周辺にはいつだって様々な人の感情が溢れ、それは近づけば近づくほど複雑で難しい。当事者にしか分からないものだ。
だからこそ、その事実としての喪失や死。あるいは遺された人の無念や後悔を客観的に捉え、次の世代に生かしていけるのは、ひょっとすると、その事実に何の関係もない人にこそでき得ることなのかもしれず、そしてそれはもしかしたらこの震災にも同じことが言えるのかもしれないと。私のような人間や直接震災に関係がない人にも出来ることがあるのかもしれないと。
非常に身勝手だが、この詩を読んだ時やっとそんな風に思ったのだ。

私にはいわゆる直接的な被災経験はない。しかし仙台で過ごした時間の中で見聞きした事、感じた事、考えた事は時間を経て、今、私に震災について考える心を育ててくれた。今なら自分なりの言葉で、あの復興への言葉を書けると思う。

でも具体的に復興に向けて私にできること、となるとすぐには思いつかないのが本音で。

9年という月日は流れたが、いざ被災地に目を向けてみれば未解決の問題は多くある。防潮堤が完成すれば、街が戻って来れば。復興といえるだろうか。遺された人々の心のケアは、心の復興は。
正直、高校三年生の私にはとても抱えきれないものばかりだ。

じゃあ今の私にできること。それはなんだろうと考えた時に、自分の経験やいま考えている思いをちゃんと文章にして、そしてそれを読んでくれた誰かが少しでもあの震災のことについて考えられるような、そしてそれを生かしていけるような。そしていつかその人が考えたことが誰かの命を救えたら、後悔を減らせたら。そんなことがもしできたら。夢物語かもしれないけれど、やらないよりいいかもしれないと考え、今、書いている。

なにも難しい記事を読めとか被災地に行ってボランティアに参加しろというわけではない。今の私たちにも出来ること。それは先の震災の後悔を生かして、減災や防災について考え続けることではないだろうか。

今地震が来たら、すぐに逃げられますか、避難経路、分かってますか。

家族や大事な人を守れますか。絶対後悔しないように、対策できてますか。

もしもの時、助け合える心の余裕持っていますか。

9年前のあの日のことを少し思い出して、今の自分ならなにが出来るか考えてみてほしい。


毎日は常に誰かの誕生日であり命日で、ほとんどの人は親戚などの死を振り返った経験があると思う。
とはいえ普段の日常の中で身近な人の死を振り返り、繰り返すことはあっても、他人の死を繰り返す機会はほとんど無い。(谷川俊太郎の詩・くり返すにもあるように)
でも、もしかしたらそこにこそ明日を生きるヒントや、自分や大切な人を守る鍵が埋もれていたりするかもしれない。
だからそういう日が一年に一度あってもいい。

そんな一つの「きっかけ」に3.11があればいいなと、私は思います。

拙い文章ですがここまで読んでいただき本当にありがとうございました。


東日本大震災で失われた多くの方々に、ご冥福をお祈りします。


2020年3月11日


↓以下引用


谷川俊太郎 くり返す

くり返すことができる
あやまちをくり返すことができる
くり返すことができる
後悔をくり返すことができる

だがくり返すことはできない
人の命をくり返すことはできない

私たちはくり返すことができる
他人の死なら

私たちはくり返すことができない
自分の死を



引用
最果タヒ 恋文(詩集・愛の縫い目はここ収録


震災から9年、初めてこんな形で文章にしました。言葉にするのがとても難しいです。だから自分の気持ちが真っ直ぐに伝わっていないかもしれない。私の実力不足です。私の至らない文章力のせいで誰かを傷つけたり不快な思いをさせてしまっているかもしれません。申し訳ありません。この文章について何か不快に思われたことなどありましたらありましたらお気軽にご連絡ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?