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人生を変える出来事が、この先ずっと起きませんように。

大学を卒業して無職の現在、自分の変化を毎日緻密に見るように意識している。それは、外からやってくる変化もなければ、自分で目に見えて生み出している変化もないからこそ、変わっていく自分を1番近くで見ている自分が、それをちゃんと認めてあげよう、という思いからかもしれない。
そんな毎日の中で、気づいた最近の変化。それは、「人生を変える出会いが、この先ずっと起きませんように」という高校生の自分とは真逆の願いを、自分が持つようになっていたことだ。

人生を変える出来事が起こりますように、という願い(でも、そんなこと叶わない)

高校生の頃、大学受験に向けて勉強していた私は、どこかで、まだ全力で向き合えていない、漫然とした自分を分かっていた。だから、自分を本気にさせてくれる出来事が、外からやってきますように、と願ってばかりいた。

受験の合格が、私の過去をひっくり返してくれるらしい

勉強や部活、学校行事に追われている毎日は、日々を惰性で生きていた。「本当にこれでいいのかな」と湧き上がる疑問は、「今まで勉強を頑張ってきたから、これで結果を出さないと」という過去からの制約と、「未来の自分のために今頑張ろう」という未来からの制約で、潰された。大学の合格、という結果を手にすれば、私の過去も、「本当にこれでいいのかな」という疑問も丸ごと、全肯定してくれる。だから私は、この「ひっくり返し」を求めて、勉強を頑張った。

受験で、ドミノ倒しは起きなかった

結局、目標としていた大学を受けることはやめ、第二志望に大学を受け、そこに合格した。(志望大学の変更に対して、私はとてもスムーズな気持の切替をしていたのを、今でも覚えている。元々そこまで気持が強くなかった、と言えばそこまでだが、このことを、今まで言葉にして認められなかったほどには、残念だったのだろうか。)というわけで、結局私の人生に、「ひっくり返し」は起きなかった。今までの自分の頑張りが全て塗り変わるような「ドミノ倒し」は起きなかったのだ。

「ドミノ倒し」は何度だって起きる

そんな私だったが、そこから四年経ち、大学を卒業した今思うのは、「ドミノ倒し」は何度だって起こるのだということだ。過去は常に今によって解釈され直す、語られ直す。
私の今は、大学という外の世界との接続によってもたらされた、怒涛の出来事と、出会った人たちによって、形成されている。

この結果に意味を、という執念

大学生活の自分を駆動していた思いの一つには、「自分がこの大学に来た意味がありますように」という願いだったのかもしれない。その願いは、「同時に、きっと意味があるものにしてやる」という、意志よりも、もっと意地汚い、執念みたいなものだったのかもしれない。

わらしべ長者になる

自分の起きること起きることに、意味がありますように、という執着は、私をわらしべ長者にした。この出会いがあったからこそ、これと出会い、この出会いがあったからこそ、今度はそれと出会い…みたいなことを繰り返していた。
ある程度それが溜まってくると、この出会い、このハプニングがなければ、これは無くて…みたいなことを、味わいだす。しまいには、紙に図を書いて、その連続を眺めて見るような変態になってしまった。

小さな分岐が私の愛すべき今を形成してくれている

そんなふうに図まで書き出すと、一般によく言われている、「色々な出来事があって自分の今がある」ということが、自分の目の前に立ち上がる。自分で、一つ一つの出来事や人を思い浮かべて、そしてそれが全て連続して今に地続きになっているのを味わうのは、私にとっては格別の体験になる。もちろん、自分の今の感じ良くないな〜というときには、過去を全部抱きしめたくなるような気持なんかに浸る余裕はないので、いつも自分の助けになってくれるわけじゃない。でも、その感覚によって、ますます、過去を規定するのが今なのだとしたら、常に今をちゃんと生きようと思うと同時に、それがどんな今でも、即ちどんな過去でも、未来の「現在」によって、いくらでも規定され直すことができるんだ、という強い肯定を感じる。

人生を変える出来事が起きませんように

「人生を変える出来事が起きませんように」というのは、穏やかで変わりない、安心安全な人生が長く続きますように、という願いではない。「小さな奇跡、小さな分岐が、大きな一つの出来事によって、多い隠されませんように」という願いだ。もっと言えば、それは人生や世界への要求ではなく、自分への要求である。自分自身が、大きな一つの出来事だけに、意味を見出すのではなく、毎日起こっている奇跡に、これからも目を向け続けられますように、という自分への願いだ。同時に、これからも小さな出来事の連続の上に成り立つ自分の「今」を味わって、これまでの過去にしっかりと感謝をし続けるぞ、という宣言でもある。

どんな過去にも、どうしようもなく今が重なる

数ヶ月前に、私はちょっと大変なことがあって、「これを笑って話せるには十年くらいかかっちゃうかもな」と思っていた。それが起きてしまったこと自体も否定したくて、人に話すことすらしんどいような出来事だった。
それでも、その出来事を忘れたり、癒したりするために、とった行動によって出会ったものが、今自分の大好きなものになったり、その出来事によって揺さぶられた自分の信念がより強いものになったりしたのを、感じている。
あの出来事を、肯定するなんてことはしたくないのだけれど、自分が今愛しているものの中には、その出来事がなかったら出会わなかったようなものが含まれている。それは受け付け難いことで、でも、その意味で「どうしようもなく」なのだ。
それでも、この「どうしようもなさ」が、不変のものとして、自分を常に取り巻くことに、やはり安心感がある。命が続く限り、過去は更新され続ける。解釈され直し続ける。意味を与え直され続ける。その選択ができる自由だけは、今にちゃんと残されている。

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