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「シン」印について真剣に考える

(この記事はエヴァンゲリオンに関するネタバレが多少あります。)

そういえば2年前のこの時期、シン・エヴァを見に行った。

ずっと思っていたことをひとつ。
旧劇の「エヴァンゲリオン」の「エ」は普通にカタカナの「エ」、新劇の「ヱヴァンゲリヲン」の「ヱ」は旧仮名の「ヱ」だった。
これは今までの旧劇と再構築された新劇との対比を表すために行われたことだったはず。
でも、「シン・エヴァ」だけ普通の「エ」。
「エヴァンゲリオン」の「オ」(旧劇)→「ヲ」(新劇)→「オ」(シン)についも同様のことが言えるけど。

旧劇のタイトルロゴ
新劇三部
新劇最終作

どういうことなーん。

ループからの脱却を表すためという説を聞いたことがあるけどやはりそうなのかね。

いま庵野監督は「シン」シリーズ(シン・ゴジラ、シン・ウルトラマン、シン・仮面ライダー)を制作している、してきたわけだけど、それとも関係があるのかな。

ここで個人的に考えていることがひとつある。
エヴァ以外の「シン」シリーズの原作は庵野監督ではない。
庵野監督は「監督不行届」というアニメでも分かる通り、エグいヲタク。もはやヲタクのゴルゴダオブジェクトに辿り着いた人。
庵野監督の制作行為がヲタクの行為だと考えると、この「シン」シリーズは要は二次創作とも捉えられる。

ちなみに公式声明としてはこのように発信されている。

「シン」の意味付けは受け取り手次第、といったところだろうか。

原作に自分の解釈を入れて、再構築して、世に放つ。まさに二次創作。
しかし、庵野監督レベルになるともうそれは二次創作ではなくて、一種の作品になる。ヲタクが制作側に回ったら創造主になってしまうのよね。

では、自分の作品に「シン」レーベルをつけたのはなぜか。

自分自身の作品に二次創作を見出したからではないかと思う。

旧劇、アニメ版「新世紀エヴァンゲリオン」は率直に言って救いようがなさすぎる。登場人物見事にみんな救われない。見てるこっちまで救われないアニメってあるんだあーと初めて見たとき半ば放心状態になった。
制作当時の庵野監督について調べたが、なかなかに精神的にきているようだった。
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などの暗い社会情勢に加えて、次第に巷で人気を博していく自身のアニメ。追い詰められ続ける自身の精神。鬱にもなるはずだ。

そんな状態から数年経過して、庵野監督は妻である安野モヨコさんはじめ、カラーや西の超おじいさんの支えもあって、少しずつ精神的に安定し始めた。
(このあたりのことは株式会社カラー創業10周年記念作品「よい子のれきしアニメ おおきなカブ(株)」というアニメで見ることができます。)

精神的に安定したヲタクが、誰も救われないアニメの登場人物を見たときに思うことはひとつだけーー。

救いたい。二次創作書こ。


アニメ。普通に視聴者の間でも人気で、自身もいたく気に入っていたキャラが亡くなったとしよう。翌日にpixivでそのキャラが笑顔でこちらに顔を向けている、もしくは周囲のキャラと仲睦まじく暮らしている絵が途端に増える。
アレと一緒なのでは……?と思っている。
失礼は承知だ、すまない。

思い出せ。庵野監督はヲタクだ。

思いついたことをダラダラ書いていたら驚くほど長くなったが、私が出した結論は「シン」印は庵野監督の二次創作を表しているということ。

序盤で言っていた「シン・エヴァンゲリオン」表記の謎と繋げて考えよう。新劇の最終作で表記が変わったことは「旧劇からのループの終止符、新世紀ネオンジェネシスのおはなし」というテーマを表しているから、としよう。
そして、私の説で言うと二次創作の「シン」が作品名についている。
つまり、庵野監督は「シン・エヴァンゲリオン」を、自分自身を新しいステージへ導く、自分自身を新世紀へ導くという庵野監督自身が縛られていたエヴァの呪縛、新作エヴァの制作作業における苦のループから脱するための印としたのではないだろうか。

「シン・エヴァンゲリオン」。
エヴァに追い詰められていた自分への終止符。

その前に「シン・ゴジラ」。
自身が原作ではない作品を再構築することの愉しさを知った。

そして「シン・ウルトラマン」、「シン・仮面ライダー」に続く。

次はどんな「シン」シリーズが来るのだろう。
やはり最有力なのは「シン・ゴレンジャー」かな。正直「シン・ガンダム」は富野監督が許すかなあ……というのがある。

かっこいいぜ。

「シン・鉄人28号」とか来たら面白いね。

エヴァをいろんな意味で終わらせてくれた監督には感謝しかない。
どうかこれからも庵野監督および制作関係者の皆様、御健康に留意されて素晴らしい作品を世に放ち続けてください。
ファンは待ちます。
いや、待てます。

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