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鈴村健一「くものいと」に込められたメッセージ


鈴村健一さんの4thフルアルバム『ぶらいと』に収録された「くものいと」。

私は、タイトルにびびっときてしまった。
なぜなら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が好きだから。
さらに、歌詞を読み解くことが好きだから。
「もしかして、両者に共通点があるのでは?」というわくわくを胸に曲を再生し、歌詞カードを見た。ノートに歌詞を書き写し、「蜘蛛の糸」も読み返した。久しぶりに頭を回転させて、歌詞を読み解いた。
もし、興味を持ってくれる部分が一文でもあれば、という希望を込めてこの記事を公開する。


記事を読む前に

歌詞の解釈等はあくまで個人の意見で、他の方へ押し付けるつもりはありません。
また、作詞者の言葉を自身で読み解くことを大切にしたため、ご本人の意見を入れずに解釈しています。
プライベート多忙もありインタビュー記事を読んだり、ラジオ番組を聴いたりもほとんどできていないので、その点についてもご理解ください。



曲に込められたメッセージとは

「手をのばせ、たとえ届かなくても」

この言葉がMVの冒頭で発される。
この曲に込められたメッセージであり、記事のタイトルの答え。

思い込みでも、誰かのせいにしても、
手をのばせば、
現状を打開しようという気持ちを行動に移せば、
チャンスがあるかもしれない。
前に進む気持ちがあるなら、動け。

そういうメッセージが、この曲に込められている。

鈴村さんの歌詞は、人の背中を押すような力がある。
実際に私も背中を押された人の1人。

ちょっと話が逸れるけれど、前項で本人の意見を入れずに解釈すると書いた。
この記事では、本人の意見を入れずにどれほど本人の意図に近づけるか、というのも実験してみたつもり。


図解:語られる世界のイメージ

この曲は、比喩的に語られる世界があって、実際の世界の「僕」をその世界で生きる「僕」に投影しているという構図になっていると思う。

比喩的に語られる世界のイメージ図がこちら。



丸で囲まれているのは登場人物。
世界は奈落の底と楽園に二分されていて、住めば都の奈落の底から這い上がれそうな手段が「くものいと」。

実際の「僕」の中に起きている矛盾が人々の行動となってこの世界で繰り広げられている。


「くものいと」と芥川龍之介「蜘蛛の糸」の類似点

さて、私が最も興味を惹かれた両者の類似点についてお話しする。
類似点というと真面目に聞こえるけど、「この歌詞、この場面と似てる!」と気づいたところを列挙するくらいのもの。

中学1年生の国語の教材として取り上げられるくらい有名な作品だけど、まだの人はこちらから。
⇒ 青空文庫:蜘蛛の糸
短い作品だから10分ほどで読める。

以下、歌詞は引用だが、「蜘蛛の糸」は要約のため作品本文との書き方は一致しない。

①くものいとはだらりと 未来を試す様にゆれる

御釈迦様が蜘蛛の糸をそっと手に取り、蓮池の遥か下にある地獄の底へまっすぐに下ろした。
ある時、犍陀多が血の池の空を眺めると、遠い遠い天上から自分の上へ糸が垂れてきた。

②やがて誰かがそれを掴んだ

犍陀多は喜んで、早速その糸を両手でしっかりとつかみながら一生懸命にたぐりのぼり始めた。

③引きずり下ろす群衆は

蜘蛛の糸の下の方には、数限もない罪人たちが犍陀多の上った後をつけて、まるで蟻の行列のように上へ上へよじ上ってくる。

④くものいとは綺麗で 甘そうな雫がしたたる

美しい銀色の糸、なんとも云えない好い匂い(という描写)

⑤登り切れば 楽園が

この糸に縋りついて、どこまでも上って行けばきっと地獄から抜け出せるに違いない。上手く行くと、極楽へ入ることもできよう。

以上5箇所が類似していると思ったところ。

犍陀多が「誰か」、数限もない罪人たちが「群衆」で、「僕」はそれを見る語り手、と置き換えられると思う。

歌詞中、行動を起こす「誰か」の心情を「僕」は推察しており、「蜘蛛の糸」の中では犍陀多の心情が語られている。

これらを重ね合わせると歌詞が描きたい世界が広がり、「僕」の状況に深みが出る。



僕がひとりであること、僕にチャンスがやってくること

「手をのばせ」というフレーズが印象深いこの曲。
この動作が「行動に移す」ということで、「僕」がひとりで矛盾に笑われている現状を打開するチャンスに繋がる行動を意味すると思われる。

まず、「僕」がひとりであることを象徴する部分についてお話しする。

①箱庭

まず、箱庭とは何か。

浅い箱に土や砂を入れ、小さい橋・家・人形などを置き、木や草を植え、庭園・山水などに模したもの。
goo辞書より https://dictionary.goo.ne.jp/word/箱庭/

これが意味するのは、閉塞した、限りのある空間。
地を這っているばかりでは、行き止まりばかりの世界。
つまり、箱庭の中を離れれば、限りない世界が広がっているということの暗示。

②「様」という言葉

・未来を試す様にゆれる
・誘う様に聞こえる

ご存知のとおり、「様」は「〜らしい」と同義で、主観による見方と考えられる。

強引かもしれないが、未来を試す様に見えるいとも、誘う様に聞こえる声も、「僕」が全て自分の背中を押してもらえるように思い込んだ見方。

自分が変わりたくて、でも選べないでいるので、誰かさんのせいにしてしまっている描写といえる。

③誰かさんのせいにしてる(歌詞)

自分を信じて裏切られて
挙げ句に誰かさんのせいにしてる

この歌詞からは、自分の思い通りにいかず、気持ちのやり場を無理やり外に向けている様子が伺える。

④ひとりで見上げる空の先へと(歌詞)

空の先には揺れるいとがあり、楽園があるかもしれない。
そんな目指したい場所をひとり見上げる様子を想像すると、ひとりであることが誇張されるよう。

⑤「蜘蛛の糸」の世界観を歌詞へ落とし込んで

「蜘蛛の糸」で御釈迦様が蜘蛛の糸を池に下ろしたのはただの気まぐれで、犍陀多は根拠もなく希望を持ち、糸を掴んだ。

気まぐれであることは作品中には直接的には描かれていない。
しかし、たまたま蜘蛛を見つけて、たまたま犍陀多の蜘蛛にまつわるエピソードを思い出して糸を下ろしたという描写から「気まぐれ」であることが読み取れる。

他者の気まぐれ(誰かを助けようなどという気がない)で下ろされ、ゆれているいとを掴んだ「誰か」は、ひとりが際立つ。
「誰か」のように行動を起こしたい自分もイコールで、ひとりが際立っている。

以上の点で、「僕」がひとりであることが象徴されている。

ただ、この曲は「僕」にチャンスが訪れて終わりを迎える。

「僕」にチャンスが訪れるのは最後のワンフレーズ。

臆病者よ てをのばせ

臆病者「よ」と呼びかけられていることが、他者による言葉ということを表している。

歌詞中で印象的だった「てをのばせ」というフレーズは、ここに至るまでに4回出てくるが、全てにカギ括弧が付されている。
この4回の「てをのばせ」は「僕」の心の中で響いていた声、つまり「僕」が「僕」を信じて呼びかけていた声なのではないか。

それが、最後のワンフレーズではカギ括弧がなく、他者に呼びかけられたような言葉がある。

このチャンスを無駄にするわけにはいかないだろう、というメッセージも感じられる。

こうして「くものいと」の世界は幕を閉じる。


「くものいと」というタイトルはダブルミーニング?

漢字でも表記できるものが平仮名で表記されていると、私の探究心がくすぐられる。

ずっと絡めて読み解いている「蜘蛛の糸」との関係だけであれば、曲のタイトルも漢字表記にしてしまったっていいかもしれない。

このタイトルに込められた意味について、考えてみた。

①蜘蛛の糸

芥川龍之介「蜘蛛の糸」の世界観を絡めて、「僕」の置かれている状況描写をしている。

また、蜘蛛の糸のように複雑に絡み合った状況や「僕」の気持ちを表している。

②雲の意図

「雲を掴む」という慣用句にも表されるように、「雲」ははっきりしないものを表す。
「僕」のはっきりしない意図・意志を意味するのがこの表記。

以上2通りの表記を含め、平仮名でタイトル表記をしたのではないか。
ではなぜ片仮名ではないのか……などと謎は深まっていくところもあるが今回はここまで。
平仮名の方が含みの範囲が大きい気がするというのは個人的な感覚。



おわりに

2022年2月26日の横浜公演に記事の公開を間に合わせたく、殴り書きの記事でした。
ここまで読んでくださった方がいれば、絶大な感謝を送ります。ありがとう。

ボキャブラリーが少なく、「いい加減だろ」、「無理やりだろ」、「意味わからないよ」というところもたくさんあったので心苦しいです。
気づいたところあったらちょこちょこ修正しますね。

実は言及できていないポイントもいくつかあるので心残り。

みなさんの未来に、わたしの未来に、「僕」の未来に、幸あれ。