さようなら、を告げる練習。

お世話になった山内さん(仮名)が、退職する。しかも、会社都合による左遷を断った、という理由だ。山内さんとの思い出を振り返っていたら、なんだかとても心が苦しくなってきたので、本人にさようならを告げる前に、その練習をしようと思う。

私が入社したのは、およそ3年前。期待と不安を胸にいっぱい詰め込みながら、会社のドアを開けた日のことを今でも覚えている。「今日からお世話になります」と挨拶をして、鞄から真新しいペンケースとまっさらなノートを取り出す。これから沢山の知識や技術を頭と身体に叩き込んで、上を目指そうと決めていた。年功序列ではなく、実力主義。頑張った分だけ、評価される。そういう環境なのだと、聞いていたから。私だけじゃない。周りのみんなが、ぎらぎらとしていた。歌舞伎町で雑多にあふれるネオンのように。

「今日から山内さんの担当として、フォローして行ってね」

営業事務として入社した私が、一緒にお仕事をすることになったのは、営業の山内さん。パーマをあてた柔らかな髪が印象的で、少しあどけない表情の残る男性だった。だが、年を聞けば私よりも5つは上だという。山内さんは、とてもネガティブでとても後ろ向き。山内さんはなぜだかいつも焦っていて、私はいつも彼と一緒に慌てていた。時間に追われる仕事だったから、ということもあるが、彼の「早くして」「大至急対応して」という言葉が飛んでくるたびに胃のあたりがぐっと持ち上がり息苦しくなった。

山内さんは、彼女がいない。彼女がほしい、と言うものの、合コンに行くわけでもなければ婚活パーティーに参加するわけでもない。「彼女がいるやつはいいなあ」と呟いては、行きつけの飲み屋で女の子を引っ掛けて少しだけ遊ぶ。だけどプライドは巨人すらも超えられないほどに高く聳え立っていて、誰かと長く一緒に過ごすということが、できない人だった。

山内さんと私は、しょっちゅう言い争っていた。「いや、無理です。できもしない依頼をしないでください」「無理でも必要なんだって。どうにかしてよ」「自分でどうにかしてくださいよ」といった具合に。私はそのたび、室内でキャインキャインと鳴き声をあげて走り回るチワワのことを思い出して、苛立ちを募らせた。でも、走って獲物をとってきたとき「すごいでしょ」といわんばかりにこちらを見てくる山内さんは、少しだけ可愛かった。

私は365日のうち、240日くらいは山内さんの顔を見てきた。それが3年という年月を重ねているのだから、どこか動物的な山内さんの顔を720日くらいは見てきた換算になる。「やめるときは俺ら、一緒だからな」「沈みゆく船で一緒に頑張っていきましょう」「いっそ俺が沈ませようかな」「タイタニックごっこしましょうか」……今思い返せば、しょうもない話ばかりしている。

山内さんと手をつなげるか、といわれたら、多分答えはノーだ。向こうだって、私と手をつないで笑いたいわけではない。自己ベストの売上金額の3倍を目標に設定し「こんなこともできないお前達はクズだ」と洗脳され続けた黒くて深い地獄のなかを、互いに声を掛け合いながら走ってきた。言うならば、私たちは戦友である。何度も銃弾が頬を掠め、時には倒れこんで起き上がれなくなった。そんなとき「まあ、コーヒーでも飲もうよ。割り勘で」と喫茶店へ誘ってくれるのが山内さんだった。割り勘、という一言に人間性がにじみ出ていて、しかもレジで別会計にしてくるあたりがさすがだよな、と思っていた。

ーー俺、会社辞めるんだ。

何度目かの冗談だと思った。壁にかかった日めくりカレンダーは、4月1日だっただろうか。いや、3月の30日。嘘をつくことが許されない日だ。

「左遷だってさ。これまでやってきた自分、なんだったんだろうな」

頑張っていたのに、どうして。一緒に沈みましょうね、って言ったのに。頭のなかを色々な言葉が過ぎって、でも彼のハシビコロウのような目を見ていたら、何も言えなくなってしまった。

一生懸命やれば、いつかは報われる。だからそれを信じて、頑張れ。

そんなきれいごとを、口にする人がいる。山内さんは一生懸命やっていたのに、報われなかった。それは、私だってそう。報われない思いや、かなわない願いなんて吐いて捨てるほどあって、だけど私たちはなにかを願わずにはいられない。

お金持ちになりたい。仕事で認められたい。彼女がほしい。毎日笑って暮らしたい。まるで排水溝にたまる水アカみたいに、現れては存在を主張する小さな望みたち。山内さんはそれらをごしごしとスポンジで擦り続けて、なにも期待を抱かないようにしている。

「お先に失礼します」

誰よりも遅くまで、必死で頑張っていた山内さんが、今日は誰よりも早く帰っていく。願わくば、彼が玄関のドアを開けたら、温かな味噌汁の香りが出迎えてくれますように。

さようなら。そして、おつかれさまでした。

ああもう、本番では泣かずに言えるだろうか。ちょっと難しいかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?