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2040年の世界 かのん館での暮らし

サクラは寮母の指示通りエミリとの時間を徐々に増やしていき、空いた時間はかのん館の管理・運営を担当する人々の仕事を手伝った。そのことによって、施設の機能をよく理解できた。
ここでの生活はとても規則正しく、静かで秩序があった。
被虐待児やネグレクトを受けた子どもにとって、日々のリズムと反復は非常に重要な役割を果たすとされている。

この規則正しい生活の中で、子どもたちは少しずつ変化していく。

まず、この予測可能な環境は子どもたちに安心感をもたらした。いつ、何が起こるかわからない不安から解放され、子どもたちの表情にも少しずつ余裕が見られるようになってゆく。

また、規則正しい生活リズムは、トラウマからの回復を助けているようだった。子どもたちの中には、夜泣きや不眠に悩まされる子もいたが、徐々にその頻度が減っていく様子が見られるという。日々の反復的な活動が、新しい安全な記憶を形成し、過去の辛い経験を少しずつ上書きしていくといわれている。

さらに、決まった時間に食事をし、入浴し、就寝するという習慣は、子どもたちの自己調整能力を向上させていく。感情の起伏が激しかった子どもも、少しずつ自分の感情をコントロールできるようになっていくという。

そして、育母たちとの安定した関わりは、子どもたちの愛着形成にも関係し、信頼できる大人の存在が、子どもたちに安全基地を提供し、少しずつ心を開いていく。

日々の習慣を通じて小さな成功体験を積み重ねることで、子どもたちの自尊心も育っていった。自分で身支度をしたり、簡単な手伝いをしたりすることで、「自分にもできる」という自信が芽生えていく様子が見られるという。

サクラは、この規則正しい生活が単なる管理のためではなく、子どもたちの心の傷を癒し、健全な成長を促すための重要な要素であることを理解した。

保護された時、エミリは虐待によるストレスから円形の脱毛がいくつも頭部に見られたというが1年経った今では薄い部分もあるものの、脱毛は改善しているようだった。また、度々あった尿や便の失禁も今ではほぼないようだった。

最初は夜中に悪夢にうなされて叫び出しても育母Kは彼女を抱きしめることはできなかった。というのも被虐待児の多くは人から触れられることを極端に嫌がり、触れるとパニックを起こしてしまうからである。エミリもまさにそうだったという。
しかし、今では夜中にエミリは泣き叫び出した時、Kが抱きしめるとエミリは彼女の胸の中で泣いて、しばらくすると泣き止みすやすや眠るという。

ここでの暮らしがエミリの受けた心の傷を癒しているのは明らかなようだった。

サクラは徐々にKとエミリといる時間を増やしていき、やっと数日前からKとエミリの部屋で寝起きしていた。

ネストハーモニーと呼ばれるこの施設は、1棟につき、30組の育母と子どもたちが生活できるよう設計されていた。各組に与えられた2DKの部屋には、それぞれ独立したトイレ、浴室、台所が完備されており、まるで小さなアパートのようだった。

その中の一室、育母Kとエミリの部屋はふたりの生活の息遣いが感じられる温かな雰囲気に包まれていた。

柔らかな曲線を基調とした家具が、部屋全体に優しい印象を与えていた。アーチ形の開け放たれた窓からは、朝日の柔らかな光が差し込み部屋は明るく、朝の手つかずの清潔な空気で満ちていた。

今はKが朝食作りをしていて、その隣でエミリの背丈に合わせた踏み台の上にエミリが立ち、手伝いとしてミニトマトのヘタを取っていた。
エミリはボウルに入ったミニトマトのヘタを取る作業に集中していた。
エミリの細い指が、ゆっくりとミニトマトを掴む。彼女の動きは不器用で、時折トマトを取り落としてしまう。しかし、諦めることなく黙々と作業を続けている。ヘタを取ろうとして、トマトを潰してしまうこともあった。

エミリの表情は乏しいものの、眉間にかすかなしわを寄せている。

その横で、サクラは手動のコーヒーミルを使い、豆を挽く。豆を挽く音が静かに部屋に響く。

コーヒーの香りが部屋に広がり始めると、Kは一瞬作業の手を止めて深呼吸をした。
「いい香りね」
とサクラに微笑みかける。サクラもそれに応えて微笑む。

サクラは丁寧にドリッパーにフィルターをセットし、挽いたコーヒーの粉を入れる。お湯を静かに注ぐと、コーヒーが少しずつKとサクラのマグカップに落ちていく。その様子を、エミリが時折好奇心に満ちた眼差しで見つめていた。

朝の穏やかな空気の中、三人それぞれの作業に没頭しながらも、お互いの存在を感じ合う時間が流れていった。エミリのゆっくりとした作業、Kの手際の良い料理の準備、サクラの丁寧なコーヒーの淹れ方が、静かに調和しているようだった。​​​​​​​​​​​​​​​​

朝食の準備ができると3人は
「大地の恵み 太陽の恵み
   私たちに 命をくれる
   感謝をこめて いただきます」
と言い、手を合わせてから、食事をした。

サクラはこの施設でことあるごとにこういった祈りのような詩のような小節を皆が口ずさむのをとても美しい善いことのように思った。

食事後は部屋を掃除をして施設内を散歩するいつものルーティンだが、
散歩のために外に出るとKとエミリは必ず決まった言葉を口ずさんだ。
 「大地はかたく 足もとにあり
   お日さまあかるく 空にかがやく
   ここにまっすぐ 立つわたしの
   からだとこころ たくましくそだつ」

それはまるでここの暮らしのように美しい祈りのような詩(うた)だった。

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