全能神の御言葉と働きは黙示録の預言を成就する

康健(カン・ジエン)、中国

    私たちは今終わりの日にいます。そして主イエスはずっと前に再臨されました。それは受肉された全能神です。全能神は言葉により人を裁いて清めるという段階の働きを行われますが、この働きは独立した自己完結的な働きではありません。むしろヤーウェとイエスの働きを土台として行われる、より深い高次の働きです。しかし、このように言う人々がいます。

  「終わりの日における全能神の働きは黙示録22章18節から19節の預言に反する。すなわち、『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる』のことだ。全能神の働きは聖書の黙示録に付け加えれたものであり、全能神に付き従う者は誰であろうと天の御国に参与する機会を失う」

    これは実際には神も神の働きも理解しない人々による思い込みと憶測であり、黙示録の背景を知らない人々の言うことです。実際の事実と全く違いますし、到底議論として成り立ちません。

  聖書を理解する人々は皆、黙示録は使徒ヨハネがローマ皇帝によってパトモス島に追放された後に見たまぼろしの記述であることを知っています。それは西暦90年より少し後の頃であり、新約聖書が編纂される前、そして新約聖書と旧約聖書を両方含む聖書全体が完成する前でした。ですから、黙示録22章18節から19節で言及されている「この書」とは、現在の聖書全体のことでも、旧約聖書のことでもなく、黙示録のみを指しているのです。黙示録で言及されている「この書」が現在の聖書を意味すると解釈するならば、その理解には問題があります。更に、預言に書き加えもそこから取り除きもしてはならないと聖書で言われている対象は人であることに注意すべきです。神ご自身はその対象には含まれないのです。なぜならこれらの預言は、神が将来行われる働きに関するものであり、神ご自身が働きを行うために来られて初めて成就できるからです。そのため人はこれらの預言に恣意的に書き加えたりそこから取り除いたりしてはならないのです。聖書のこれら二節を理由に、終わりの日の神の働きを黙示録の預言に限定したり、「神には黙示録で預言されていない働きを行うことも言葉を語ることもできない」と言って神の限界を定めたりしてはならないのです。神は創造主ですから、全てを司り、預言されていることを超えて御自身の働きを行う完全なる権威を持っておられます。これは誰にも阻止できないし、誰にも制限できないことです。黙示録で人は書き加えも取り除きもしてはならないと言われているのは、神の人に対する要求でした。神が人に要求することを逆に神に当てはめたり、聖書の文字と規則を用いて神を束縛し限定したりすることも、神が聖書を超える新しい働きや事柄をなさったり語られたりするのを禁じることは人にはできないのです。そんなことをすれば自然の秩序を覆すことにならないでしょうか。旧約聖書の申命記12章32節には、「あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」とあります。これらは人が守るべきことであり、神に対して要求をするのに用いるべきではありません。イエスは恵みの時代にご自身の働きを行われていたとき、これらのことを守らず、逆に当時の人々の必要に応じてより適切な要求を提示されました。例えば、律法の時代には、人々は「目には目を、歯には歯を」と求められていましたが、主イエスが到来されたとき、主は「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイによる福音書5:39)と仰せられました。律法では敵を憎むべきであると定められていましたが、主イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書5:44)と仰せられました。旧約聖書で述べられているように、律法の時代の人々は神殿で神を崇拝していました。主イエスが到来されると、主は神殿に入らず、荒野や村々に出て福音を説いて広め、人々に霊とまこととをもって神を礼拝することを求められました。律法は人々が安息日に働くことを禁じ、安息日を守ることを規定していましたが、それでも主イエスは安息日に病人を癒し、悪霊を追い払うといったことを行い、「人の子は安息日の主である」(マタイによる福音書12:8)と仰せられました。旧約聖書の律法では、罪人は罪のためのいけにえを捧げよと定められていましたが、主イエスは人々に罪を赦されるには告白して悔い改めよと求められました。また、旧約聖書の時代には、人々は全焼のいけにえや穀物のささげ物、和解のいけにえなどを捧げなければならず、男性は割礼が義務付けられていました。主イエスは到来されてすぐに、これらの規則を廃されました。これらは主イエスが当時人々になさった適切な要求の例のいくつかに過ぎません。イエスの働きは古い規則や規定をいくつかなくし、人に新しい要求を提示されましたし、これは全て神ご自身の働きでした。しかし、律法を遵守する者の目には、この働きは聖書を超えており、彼らにとってはそれは聖書に対する付け加えと取り除きであり、律法の外で行われていることでした。そのため、ユダヤ人はヤーウェの律法を用いて、主イエスを断罪しました(ヨハネによる福音書19:7参照)。これは人の理知の欠如の表れです。神が人に対して付け加えも減らしもするなと求められている言葉を、人が逆に神を制限したり神に要求をしたりするのに用いるべきではありません。神が過去に行われた古い働きを用いて、神が現在行われている新しい働きを限定すべきではないのです。神は全ての被造物の主です。神はご自身の経営計画とご自身の自由意志に従って働きを行なわれます。それを人と話し合ったり、人の承認を得ようとする必要はありませんし、ましてや創られた人類には干渉する権利などありません。神がどのようにご自身の働きを行われても、それは常に義なる働きなのです。なぜなら神の本質が義だからです。神がどのように働きを行われても、それは常に真理であり、常に人類の最も現実的で最も実際的な必要を満たします。神の本質が真理だからです。神がどのように働きを行われても、それは神を真摯に信じて真理を求める人々に常にいのちをもたらすことができます。神の本質がいのちの源だからです。神の働きと神の御言葉は、絶対に人や出来事、物や場所、時間によって制限できませんし、ましてや聖書の文字によって制限できるものでもありません。全能神は仰せられます。

  「新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。『わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。』だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。イエスは弟子たちを連れて麦畑を通り、麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、『人の子は安息日の主である』と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)

    神の御言葉から、神の働きが古い物事にとらわれたことがなく、それどころか神は人の現実の必要に応じて、より新しくより高次の働きを行われることが分かります。これが全ての時代における神の働きの原則です。神は信実であり、神が語られた御言葉も神の預言もそれぞれ全て実現し、成就するのです。天地が滅びても、神の御言葉は一つも滅びず、やがて全て成就します。黙示録5章1節から5節では、こう述べられています。

  「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』。」

    この聖句から、神が終わりの日に書物を開き七つの封印を解く働きを行われることが分かります。つまり、神はご自身の口で人類に話しかけ、厳めしく怒る獅子の性質を表し、裁きの働きを行われるのです。神は人類を裁く神であり、もはや他人に連れられて屠殺される贖いの子羊ではありません。黙示録10章1節から4節ではこう述べられています。

   「わたしは、もうひとりの強い御使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。彼は、開かれた小さな巻物を手に持っていた。そして、右足を海の上に、左足を地の上に踏みおろして、ししがほえるように大声で叫んだ。彼が叫ぶと、七つの雷がおのおのその声を発した。七つの雷が声を発した時、わたしはそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、『七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書きとめるな』と言うのを聞いた。」

    聖書のこれら数行から、七つの雷の声がヨハネによって書きとめられなかったことが分かります。言い換えれば、七つの雷の声は聖書の中には全く存在しないのです。これら二箇所の聖句をまとめると、この小さな巻物の詳細と七つの雷の声は聖書には記録されていないことになります。このことから分かるのは、もし人が書き加えと取り除きの件(くだり)に基づいて、「神には聖書を超えた新しいことを言うことはできない」と言って神の働きを限定し神を限定してしまえば、この小さな巻物がどうして開かれることができるでしょうか。それでは神はどうして終わりの日に裁きを下すことができるでしょうか。もし神がこの小さな巻物を開かれなければ、人はこの小さな巻物の内容をどうして知ることができるでしょうか。どうしてあらゆる奥義を理解できるでしょうか。七つの雷の声の詳細が何なのかをどうして知ることができるでしょうか。そして、聖書の預言はどうして成就することができるのでしょうか。終わりの日には、全能神が来られ、多くの真理を表し、人が過去何世代にわたって理解していなかった奥義を明かされ、それにより黙示録の預言を成就されました。これらが正に七つの雷の声であり、巻物を開く子羊なのです。これは既に反論の余地のない事実となっています。全能神は仰 せられます。

  「真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能者の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。』(ヨハネの黙示録1:12-16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 しかし、預言とそれらの成就の事実との間には大きな違いがあります。預言者がまだ起こっていない事柄を詳細に記録することは不可能であり、そのため預言の成就が聖書に加えられたものだとは言えません。ちょうど旧約聖書において、メシアが来ると預言されていた時と同じです。イスラエルの人々は皆心の中では、メシアが救いに来てくれることを知っていましたし、また処女が身ごもって男の子を産むこと、そしてその子がインマヌエルと命名され、罪のためのいけにえとなることなども知っていました。しかし、メシアがどのようにやって来るのか、来たときどのように罪のためのいけにえとなるのかといった詳細は知りませんでした。また、これらの預言は単なる言葉であり、既に成立した事実ではなかったのです。しかし、イエスが働きを行いに来られたとき、旧約聖書に記録されていたメシアに関する預言は全て成就したのです。それでは、新約聖書(即ちイエスの働き)は旧約聖書の預言に加えられたものだと言えるでしょうか。もちろん言えません。イエスの新しい働きは当時の人々の目には旧約聖書と合致せず、人々の観念とも合致せず、ヤーウェの働きや言葉と同じでもありませんでした。しかし、イエスがなさったのは、律法からの取り除きでも付け加えでもなく、むしろ律法の成就でした。主イエスが「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイによる福音書5:17)と仰せられたように、イエスの働きは律法の時代からの働きの土台の上に行われていた新しい段階の働きであり、それは律法を成就し、新しく実践すべき事と、神についての新しい認識を人に与えました。新約におけるイエスの働きが旧約聖書に詳しく記録されていなかったので、人々はイエスの働きが旧約の律法を超えたもので、新しい戒めを加えたと考えました。しかし、神の目から見れば、主はただ神の計画の働きを行われていたのです。イエスの働きは、律法の働きを土台として神によって行われたより新しく、より高次の段階の働きであり、預言者の預言を実現させました。同様に、終わりの日における神の働きは、新約聖書の預言を実現させるものであり、神の贖いの働きに基づく新しい段階の働きです。これが聖書に付け加えていると言えるでしょうか。主イエスは既にこの問いに答えてくださっています。

  「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

     終わりの日の神によるこの段階の働きこそが、主の御言葉を成就しています。終わりの日における神の御言葉は、過去何世代にもわたって隠されてきた奥義を既に人に明かしています。そして、私たちが今まで聞いたことのない多くの真理をもたらしました。清められ、救われ、御国に入るための道を私たちに与えてくれました。終わりの日の全能神の働きは、ヤーウェとイエスが行った二段階の働きに基づく新しい段階の働きであり、それは前の二段階の働きよりも高次の働きです。

 全能神は仰せられます。

 「イエスが行った働きは、旧約聖書より高位にある一段階に過ぎなかった。それはひとつの時代を始めるため、その時代を先導するために使われたのである。なぜイエスは『わたしが来たのは律法を廃止するためではなく、成就するためである』と言ったのであろうか。しかしイエスの働きには、旧約聖書のイスラエルの人々が実践した律法、従った戒めとは一致しないことがかなりあった。それは、イエスが来たのは律法を守るためではなく、成就するためだったからである。律法を成就する過程には、多くの現実的な事柄が含まれていた。イエスの働きはもっと実際的で実存的であり、さらにそれは生きたものであり、教義への盲従ではなかった。イスラエルの人々は安息日を守ったのではないだろうか。イエスは来たとき安息日を守らなかった。それは、人の子は安息日の主であるとイエスが言ったように、安息日の主が来たときには、自由に振舞うものだからである。イエスが来たのは旧約聖書の律法を成就し、そしてそれを変えるためだったのである。今日なされる全てのことは現在を基にしているが、やはり律法の時代のヤーウェの働きが基盤になっており、この範囲を超えることはない。たとえば、言葉に気をつけること、姦淫を犯さないことなど――これらは旧約聖書の律法ではないだろうか。今日、あなたがたに要求されていることは十戒だけに限らず、以前のものより高められた戒めや律法であるが、これは以前のものが廃止されたという意味ではない。というのは神の働きのそれぞれの段階は以前あった段階を基盤にして実行されるからである。ヤーウェがイスラエルに伝えたこと――たとえば犠牲を捧げること、父と母を敬うこと、偶像崇拝をしないこと、他人に暴行を加えないこと、他人を呪ったり罵ったりしないこと、姦淫をしないこと、喫煙をしないこと、飲酒をしないこと、死んで放置されていた動物の肉を食べないこと、血を飲まないこと――これらは現在でもあなたがたの実践の基盤ではないのか。過去の基盤の上において、今日までの働きは行なわれてきたのである。もはや過去の律法が語られることはなく、新しい要求が課せられるようになったからといって、過去の律法は廃止されたのではない。そうではなく、高められたのである。過去の律法が廃止されたということは、前の時代が期限切れになったことを意味する。しかし、戒めには常に守らなければならないものがある。過去の戒めはすでに実践されてきており、すでに人間の在り方となっているので、いまさら喫煙をしてはならない、飲酒をしてはならない等の戒律を繰り返す必要はないのである。この基盤の上に、あなたがたの今日の必要性にしたがって、あなたがたの霊的背丈にそって、現在の働きに合わせて、新しい戒めが定められるのである。新時代の戒めを制定することは、旧時代の戒めを廃止することではなく、この基盤より高位に上げることにより人間の行動をさらに完全で現実と調和したものとすることである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(1)」より)

 神の御言葉のおかげで、神の働きの諸段階が外面的には矛盾しているように見えても、実際には一つの全体をなすものであり、各段階が前段階を土台として行われるより深い、より高次の働きであることが分かります。神の働きを分裂させることはできません。イエスの働きが旧約聖書に付け加えているとは言えませんし、ましてや終わりの日の神の働きと御言葉が聖書に付け加えているとも言えません。神を知るには、神の三段階の働きを知らなくてはなりません。三段階のうち一つか二つしか知らなければ、人類を救うという神の働きを包括的かつ完全には理解していないことになります。神の働きの三段階を全て知ることによって初めて、神の全性質、神の知恵、不思議さを私たちは知ることができるのです。

 兄弟姉妹の皆さん、聖書に記録されているのは、神が律法の時代と恵みの時代に行なわれた働きと、終わりの日の神の働きに関する預言だけですが、終わりの日のこの働きがどのように行われるか、人類がどのように救われるかは詳しく記録されていません。ですから私たちは聖書を正しく見なくてはなりません。神が来られる前は、私たちは聖書における神の御言葉の教えに従って行動し、神の御心を満足させようとしなければなりませんでした。しかし、神が新しい働きを行うために新しい時代を始められるときは、神の歩みに付き従い、神の新しい働きと御言葉を受け入れなくてはなりません。聖書に記録されている神の行われた働きを用いて、神の新しい働きを限定したり、ましてや「神の新しい働きと新しい言葉が聖書に付け加えている」などと言ったりしてはならないのです。神は新約聖書の時代には、旧約の律法を超えてご自身の働きを行うことができましたし、終わりの日にも同様に、聖書を超えて働きを行うことができるのです。全能神の働きと御言葉は、以前の二段階の働きをより高い次元に導きます。そして更に、それらは黙示録における預言の実現と成就です。現在、全能神は受肉して人のもとに来られています。そして真理を表し、神の家から始まる裁きの働きを始められました。私たちはもはや終わりの日の神の働きと言葉を頑なに拒絶することはできません。皆、心の中で神への畏敬の念を保ちながら、自分の観念を横へやり、主イエスの弟子たちに倣い、聖書を離れ、終わりの神の働きと言葉を求め学ばなくてはなりません。そうすれば神は私たちを啓き、御心を理解して神の歩みに付き従えるようにしてくださります。このようにして初めて、私たちは長い間待ち望んでいた終わりの日の救いを得られるからです!


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