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「 余興 」


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「寝言は寝て言え」


こいつは起きたまま寝言を言っているんだ(飛影)
実際とそぐわない戯言、意味不明な事を言う、
それは寝言同然で寝言としていえという事。

-----ピクシブ百科事典 より------------------

五歳児の手紙を読んで頂けただろうか?
立場や状況により思い思いの想いがあるだろうがこの子に必要だったのは
「避難」だろう。この「懇願」という大人顔負けの文章が書けるのであれば賢いので逃げれたはずだが真実はわからない。これを書いたのは大人の入れ知恵かもしれないし、多少盛ってあるかもしれない。文脈もあるだろう。
とにかくこの話を例に挙げることは無意味ではないと感じる。

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((大人になってこういう話を冷静に考えるとまあ冷めた意見も出てくる。

忘れてはいけない。

この子は五歳なのだ。何ができる?

何もできない、

実際に、

本当に、

何もできない。


この文章を残せただけでも、すさまじく偉大なのだ。
先日、こんなのより戦場の地雷で手足の無い子供のほうが酷いという意見があった。5歳の人間が受けた一生残る酷い仕打ちと(コミュニケーションに一生障害が残るのは間違いない)
それまで健全に生きた15歳の人間が失った手足の話が比べられるか?
生き延びる確率が高いのはどっちだ??
手足の無い15歳かもしれないだろう??
こういう想像力の低い輩には話すだけ無駄である。)余談)

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この状況で、
「あなたの感謝が足りないからよ、もっと願いなさい」
(いるんですよ、こういう人たち)

などというのはバカげていると今あなたが思えるのはもうこの世にいないからだ。この行き過ぎた依存関係を推し進めてたものはなんだろうか?
この文章を読む時間があるならば、各々考えてほしい。

これは特別な話だなどと思うのならば、トサツ場にいって自分でシバいて、晩御飯の豚バラでも調達すれば多少は目が覚めるだろう。

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「方便」とは何のためにあるのか?相手の状況に合わせる為だ。
あなたの思い描く理想を相手に押し付けて説得し
最終的に金や能力を搾取し規模拡大を狙う為ではない。(本来は)

もっと酷いがたくさんあるというのも理にかなっていない。
言葉で話して、写真を見せて本当に伝わるわけがない。
本気で理解してもらいたいのであれば、そこに連れていくしかない。

なぜそうできないのか?

あなたの時間と財布が痛むからだ。


その体験をVRのように(仮)でするのではなく実際にそうなってもらうしかない。まあこれは無理な話だが、どこまで近づくかはあなた次第だ。

「理想などバカバカしい、もっと現実的になれよ、これはビジネスだ」
などという理想がまったくもって馬鹿馬鹿しい。

割愛して結論を言えば・・・・

だからイノベーションまでたどり着けない。


まさに

「寝言は寝て言え」


なのだ。

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「教科書、基準となる本」というものの内容は、
「あなたの知識や経験が一定の基準に満たしている事を前提」としている。
昨今の自己啓発本のように切り抜かれた短い言葉だけを読み、鵜呑みにし、
自己満足し、行動を起こすと、川田のように失敗する。
知識はあっても経験が足りなければ理解できていないことなど、
ちょっとスポーツをすればわかるはずだ。
わかったつもりになるとは、恐ろしいものである。

経済格差だけではなく、精神格差?、が解釈を混乱させる。
難しいが、こういうものだ。

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イノベーションをした人物に(大小あるけど)
モチベーションの源
は何ですか?「好き」が源ですか?
という平和ボケした質問をしていた人間がいた。
好き嫌いなど関係ない、「強い思いと意志」ではないかというようなことを回りくどくオブラートに伝えていた気がする。
どうやったらその「強い意志」が持てるのか?
この文章を読んだあなたが明日何をするかで計れるだろう。

(深く考えすぎなどと思うのであればこの文章読むなよ 笑)

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ということで、社会問題起点デザインについての考察をしよう。

イノベーションといえば、オリンピックで見かけるようになった義足がわかりやすい。
「恥ずかしい」が「カッコイイ」に変えられたとても素晴らしい良い例だ。

だがその前に、

その台を不可能という所から作り上げた、
一人の人間の話をしよう。まさに「強い思いと意志」が成せた話である。

「舞台もなしに、イノベーションは無い」


のである。


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””日本のパラリンピック
『一人の情熱から始まった』医師・中村裕のエネルギー

https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/paralympic/03.html

https://www.youtube.com/watch?v=31UAzRg4Xcg


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中村 裕(なかむら ゆたか、1927年3月30日 - 1984年7月23日)は、日本の医師整形外科医。身体障害者のスポーツ振興をはかった。日本パラリンピックの父と呼ばれる。

経歴

大分県別府市出身。九州大学医学部卒業後、九州大学病院整形外科に医師として勤務。1958年から大分県の国立別府病院整形外科医長。1966年、大分中村病院を設立。1979年-1983年国際パラプレジア医学会副会長、1979年-1980年日本パラプレジア医学会会長。1965年に障害者の自立のための施設「太陽の家」を創設。また、障害者スポーツ振興に情熱を傾け、1964年東京パラリンピックで選手団長を務め、第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)開催に尽力。さらに「大分国際車いすマラソン」を提唱し、その実現に尽力した。1975年吉川英治文化賞を受賞。

年表

  • 1951年 - 九州大学医学部を卒業し、同大学整形外科医局に入局(医学的リハビリテーションを研究)。

  • 1958年 - 大分県の国立別府病院整形外科医長。

  • 1960年 - 英国のストーク・マンデビル病院に留学(ルートヴィヒ・グットマンに師事)。

  • 1961年 - 第1回大分県身体障害者体育大会の開催に尽力。

  • 1964年 - 東京パラリンピックの選手団長を務める(以降、1980年までの全ての夏季パラリンピックの団長を務めた)。

  • 1965年 - 身体障害者の職業的自立を目指す「社会福祉法人太陽の家」を別府市に創設。「保護より機会を」「世に身心(しんしん)障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」をモットーとした。

  • 1966年 - 大分県大分市に大分中村病院を設立。

  • 1975年 - 第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)開催。

  • 1981年 - 第1回大分国際車いすマラソン大会開催。

  • 1984年 - 7月23日、肝不全のため死去。57歳没。

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見た?読んだ?頑張った人は早死にですね。知らんけど。
詳しくは自分で調べてください。

(アイス食べる暇あるなら。え?知ってる?知ってるのにできない?それはいい例やんか川田、知ってるだけの、)

・・・だから皆でやるんじゃないかという、意見があるだろう、
そこの矛盾点をまず、腐敗した組織を例に・・・・・

カメラ//


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