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ヴァサラ幕間記8

1 青年ヴァサラと国の果て

 目の前には、膝ほどの高さから徐々に低くなり、最末部が地面に消えている土壁があった。国境を示す壁の終結部だ。数十メートルの高さの頑丈な門と、その左右にある監視塔を出発点とする細長い城だったものが壁になり、分厚かった壁は少しずつ低く薄くなりながら伸びてゆく。その最後尾が、今まさに青年ヴァサラの目の前にあった。
 国民はあの超えがたい国境がこうして消えているのを知らない。これはヴァサラが国王軍の将軍であり、国境の果てを知りたいと願っていて、それを知る機会があったといういくつもの幸運な偶然が揃ったから得た情報だった。
 草原の向こう遠くに見える山は小さく霞んでいて、塀のこちら側から広がる平野がいかに広いのかがわかる。雄大な自然に引き換え、それを僅かに区切る人工物は吹けば飛ぶほどちっぽけだった。
 だが、なぜだろう。このちっぽけなはずの国境を越えるあと一歩がどうしても出ない。何日も国境に沿って進んで来て、やっとたどり着いたのに。

  ヴァサラは国と国民を愛していたし、奴隷の子どもだった自分を国王軍に入れてくれた国王にも感謝していた。あの狂気の戦場を目の当たりにした時に降ってきた感情に、だからこそ衝動的に従ったのだ。

〝このまま、ここに安住していてはいけない。〟

 自分を引き立ててくれたほどの王だから、鎖国をし続け戦争を繰り返すことにも何か理由があるはずだ。その理由は自分ごときが考えてもわからないのだろう。ならばできることは、自らの足で歩き自らの目で見て、何が国にとって一番良いのか判断することだけだ。
 だがこっそりと国を出るには、ヴァサラは有名になりすぎていた。死んだと思われるならともかく、隣国に逃亡したと思われるようなことはどうしても避けたい。だから誰にも言わずに出て来たし、絶対に見つかるわけにはいかなかった。
 明るい間は身を潜ませ、暗くなったら国境沿いを進む。人に見つからないことだけを考えて生活する日々は、良い意味で心の鎧を少しずつ脱がせた。鎧の中から溢れて来たのは昔の他愛のない思い出ばかりで、その思い出のほとんどにはカムイがいる。
子どもの頃一緒に眺めた図鑑のことをよく思い出した。
 砂の雪原の上に三角の金の塔
 巨人族の化石
 地上にバカデカい絵
 海底都市
外の世界は広いと思ったこと。多分隣のカムイも同じ気持ちであっただろうことを。

  急に消えた自分を、カムイはきっと探さないだろうとヴァサラは思う。あいつは逃げたりくたばったりはしないと、姿を消したのはそうしなければならない事情があったからだと分かってくれるだろう。だから次に会った時も大して驚きも問い詰めもせず、いつもと同じ声色で言うはずだ。
「呆れた。お前はいつも放っておくと何をしでかすかわからんからな」
その時の表情も態度も目に浮かぶようで、ヴァサラはつい笑ってしまう。

 信じてくれるだろうか。「国」なんて抽象的なものは守れない。それが団子屋の店員であって、街の子どもであって、部下の家族達だから命懸けで守れる。けれど一番守りたいのは、助けたいのは、唯一の家族で兄弟であるお前なのだということを。
 最近は話す機会もめっきり減ってしまったが、隣にいて欲しい時も聞いて欲しい話もたくさんあった。今だって、どうでも良い話を気が済むまでしたい。
 でも。
今日もきっとしかめっ面で、皆に怖がられながら軍を指揮しているだろうカムイに心で呼びかけた。
  ちょっと行ってくる。

 ヴァサラは自分の背後に目をやった。隅々まで目を凝らし、景色を焼き付ける。
そして一息つき、
「行くか」
呟くと、新しい場所へ進むため、目の前の塀を1歩跨いだ。

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