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Diary 4

 昔の恋人の話

 六番隊からの帰り道、頭上から声が落ちてきた。
「すいません。今からそこに降りますから、危ないかもしれません」
 言っている意味がわからないと声の方を見上げると、兵舎3階の窓にパーマがかった黒髪と褐色肌の男性がいる。
窓枠に足をかけると空中に身を投げた。
 何⁉︎自殺⁉︎
 思っていると、何回転かして目の前に着地する。右肩のナップサックはバランスが悪いだろうに、器用なものだ。

 私はこの男性を知っていた。
 一と月ほど前にヴァサラ軍に入隊した、八番隊の隊員だ。
 なぜ覚えているかというと、戦闘派遣に行く度に、毎回かなり怪我をして帰ってくるからだ。筋肉質で大柄という体格こそ兵士向きだが、話をすると戦闘を行っている姿が思い浮かばないような受け答えや素振りだし、これだけ怪我をして帰る人というのもあまりいない。
 3年前から働いている先輩としてこの人は兵士に向いていないんじゃないかと思い、怪我の原因を聞いてみたところ、アクロバットとキックボクシングで武器は使わないと言うではないか。
 良くそんな戦闘スタイルで戦場に行くなと呆れたので、印象深いのだ。

 「失礼しました。大丈夫でしたか?」
 そしてこの人は外国人らしい。
南の訛りが少し残り、口調は硬い。
「私は大丈夫だけど…何、君、ここから逃げるの?」
男性はちょっと笑い、答えた。
「やはりあなたの目には私は兵士に向いていないと見えるのですね。…いえ、外に家が見つかったのです。一軒家なのにスラム街の曰く付き物件で、一回誰かに住んで欲しいということでタダ同然で借りられました。せっかく牧師ですし教会にしようかなと思いまして」
「君、本当に聖職者だったんだ」
 そのことにも驚いた。戦場にもかけてゆくロザリオはさすがにファッションではないとわかるが、お守りか何かだと思っていたのだ。
 なんで牧師が軍隊に入ることになるのだろうか…
 謎すぎる。

 その時はその場で別れたのだが、男性は次の日も私の前に降ってきた。
 今度は出勤中である。
「通勤経路が建物の屋根から屋根なのはおかしいよね」
 隣を歩く、自分より20cmは高いところに頭がある後輩に、いい加減見上げる首も疲れながら私は言った。
「スラム街の道が複雑すぎて。最初に俯瞰で家を探しながら行ったのがこの経路なので、実はこの行き方しか知りません」
 まあ確かに、来たばかりでこの街に慣れてないのは理解できる。とはいえ人の家の上というのは不法侵入なのではないだろうか。
 ヴァサラ軍を愛する人間としては軍内から犯罪者を出すのは避けたい。
 看護学校時代からここで一人暮らしをしていた私にとって、この街は庭だ。仕事でしか足を踏み入れないスラム街だとしても、この後輩より道がわかる自信がある。
「多分、私、道わかると思うから。良ければ今日待ち合わせて帰る?」
 牧師というのは本当なのだろう。
良くいえば世間擦れしていない、悪くいえば社会常識に疎いところがある。
 私の予感が何となく告げていた。
 この人は多分、色々と手を貸した方が良い人だ。

 それから、何となく時間を合わせて行き帰りしたり、彼が欲しい物があるという時には休日に会ってありそうな店を探したりした。
 外国人というのはなかなか難儀なもので、この国の食事はあまり舌に合わないらしいのだが、食べられる食材や調味料はほぼ売っていない。なので、特に食事に関するものは何日もかけなければ見つからなかった。
 しばらくしてジョバンニという名前であることを知り、またしばらくして1つしか下でないことを知った。しばらくして知り合いから友達になり、友達以上恋人未満くらいの状況になって、気づくと5年くらいの付き合いになっていた。

 ある日の退勤時、いつものように「じゃあね」と分かれ道を行こうとした私をジャンニが呼び止めた。
「ちょっと待って。このままなのはやっぱり良くない」
言っていることは良くわかった。
 その頃は恋人未満という部分がかなり危うくなっていて、遅かれ早かれ体の関係ができ、そこからなし崩し的に付き合うことになりそうだという予感がお互いにあった。
 けれど私はこの関係性が変わるのも怖かった。だから口に出さずにいたのだ。
 おそらく向こうも同じだったのだろう。自分を落ち着けるように息をつくと、やや緊張した面持ちで言った。
「これからは恋人として付き合ってくれないかな」
 今でもそれくらいの気持ちはあったくせに、何故か反射的に「はい」と言うことはできなかった。
「ちゃんと返事するから何日か待って」
と言ってから、これはただ私の気持ちを整理するためだけの時間なんだと気づき、付け足した。
「あなたのことはもちろん嫌いじゃない」
 それを聞いて解けるように笑ったのを見た時、気持ちは99パーセント決まっていたと思う。

 恋人としてのジャンニは非常に楽な人で、正直何の不満もなかった。
 一緒にいて別々のことをしていても平気だったし、合わせることを求められもしなかった。牧師修行の成果なのか本人の性格なのか、できていないことを勝手に見つけて処理してくれるようなところもあって、帰る時間が遅くなれば夕食が作ってあるし、ストックがなくなれば買い足してくれていた。
 そして付き合って8年が経とうとする頃には、どうせこのまま付き合い続けるなら籍を入れた方が色々と楽なんじゃないかという話になっていた。

 人生で初めてひいたというジャンニの風邪が長引いて、しばらく会えなかった後だったと思う。久々に会った時、何となく違和感があった。
 別に私への接し方が変わった訳ではなかったが、この人の核心に触れられないような、意識していなくてもつかめていた物が手から抜け溢れていくような、そんな感じがしていた。
 通算13年にもなる付き合いからの勘だろうか。私の頭のどこかが、これは今までにもあった衝突などとは全然違うと感じていた。
 けれど一方で、私は彼を知りすぎていた。
 何か思うところがあったとしても数日たてば自分の中で処理ができているだろうことも、ましてや婚約を破棄するようなことは絶対にしないと分かっていた。

 ただごとじゃないかもしれないぞと初めて思ったのは、彼の家に久しぶりに通された時だ。元々少ない持ち物をどこにあるかわからないぐらいきちんとしまっていた人が、食卓の上に書類を乱雑に広げたままにし、洗濯物は洗っただけで椅子の背にかけている。何よりこの部屋に私を通すのに片付ける素振りもない。
 気づいてないんだ。
 部屋が散らかっていることに気づく心の余裕がないのだと思った。気づかれないように冷蔵庫を開けてみると、自国の料理がいくつか作り置きしてあった以前とは違い、酒ばかりが並んで食べ物がほぼない。
 根拠を挙げるとキリがないが、看護師の目で見た時、精神状態がかなり悪いということは推測できた。

 1人にするのが心配で、その後は一緒にいる時間をかなり増やした。けれどしばらくして私はそれをやめた。
 寝られていないのがわかったり、夜中フラリと出て行って飲んで帰るのを朝方まで心配しながら待っていたり、体を引きずるように起きて出勤するのを見るのは、一緒にいる私だって辛いのだ。
 けれど私の気持ちは届かず、そんな状態になっている理由は一向に聞けなかった。だんだん疲れて来た私は、このまま一緒にいたら私までおかしくなると思い、仮にも牧師なら自殺はしないだろうと言い訳をしながら距離を置いた。

 ジャンニのことを私はまだ好きだったし、これからも嫌いになることはないだろうと思っていた。けれどどうしようもなく歯車が狂い、私が何をどう足掻こうが離れて行く方向にしか動かないのが見えるようにわかった。
 今まで持っていたものを無くすのが嫌だという独占欲から彼を失いたくないと思っているのかもしれないとか、不満なのは自分のことを話してくれないという一点だけなのだから、考え方を変えればそれはなくなるかもしれないとか、要するに、「別れても平気な理由」か「別れなくてもすむ理由」を私は何日も探した。
 何回考えても私は彼が好きだった。だからこそ、これから先も、彼に悩みがあっても全く話してもらえないというのは耐えきれないと思った。

 そうではない証拠を探すため、私は繰り返し12年間の付き合いをたどった。
 しかし一番大事で重要なことは自分1人で処理するというジャンニの性格はこれから先も変わらないだろうと、少なくとも私は変えることはできないだろうという確信は深まるばかりだった。
 最後に私は、よく2人でいた私の部屋で、1人で結論を出した。
 それなら私は、この人と結婚はできない。

 次に会うときは別れる時だろうと思うとなかなか会う勇気が出なかったが、ある日彼を六番隊で見かけた時、仕事場だったからだろうか。何気なく声をかけることができた。
 久しぶりに普通に会話をしながら帰り、その日は彼の家へ向かった。私の家では別れ切れない気がしたからだ。
 散らかっていた部屋は、今は片付き過ぎるほど片付いていた。いついなくなっても良い準備をしているようだと思ったが、私はもうそのことについては何も考えないことにした。
 以前と同じように一緒に料理をして食事をし、仕事の話を聞いてもらい、一緒のベッドに入り、体を重ねた。それは今までの関係を確認する演技のようでもあったし、何かの儀式のようでもあった。

 慣れた快感をよく知っている手順で与えられながら、私は何だか泣きそうになった。
 これ以上近づけないほど触れ合っているのに、体は反応しているのに、私の心はどこか遠くにあった。私の心と体をこんなに遠く離しているのが2人を隔てる肌ならば、可能なら溶かして一つのものになりたかった。
 少し前まではずっと見るんだと思っていた肩越しの景色を、もう二度と見ないんだと思うと悲しいというより悔しかった。
 私はどうしてこの人と幸せを掴むことができなかったのだろうか。この人のことは好きなのに、なぜ別れなければいけないのだろうか。
そして、そんなことが私たちの間に、何で起こらなければならなかったのだろうか。

 朝、出勤前に自分の家に戻る私を見送りながら、ジャンニは言った。
「君の部屋にある私のものは君がいない間に片付けとくよ。合鍵はポストに入れとけばいいかな」
 聞きながら、私は付き合い始めのことを思い出した。
 あの時も、関係をはっきりさせる口火を切ったのはジャンニだった。
何言ってるの、何の話?と返せば、関係は続いたかもしれないし、私は本当にそう言いたかった。
 けれど、これは彼の優しさなのだ。
 だから私は、震える声を抑えながら、2人を区切る線をくっきりと引いた。
「もうすぐ遠征に行くから。その後ならいつでも良いよ」
別れた相手の家に行って自分のものを片付け持って帰るのは、本人が一番辛いだろう。
 けれどジャンニは言った。
「わかった。ありがとう」

 その言葉が纏っていた、心に沁み通り染め付けるような重みを、私は長い遠征中ずっと忘れられずにいた。
 はっきり言葉にするのを避けていたそれは、
 〝もうこの人には二度と会えないんじゃないか〟
そういう、冷静な予感のようなものだったと思う。


 という昔の話を急に思い出したのは、目の前で私の子どもを抱く当のジャンニ本人が「そういえば」くらいの文脈で突然話しだしたからだ。
 私は結局、1と月の遠征ついで引越すことにしたのだが、引越し業者の予約が空いておらず、遠征中に引っ越さざるを得なくなってしまった。その時にジャンニにいてもらって彼も自分の物を片付けたわけだが、その後に実際死にかけていたらしい。
 そうすると、私の予感はあながち間違ってはいなかったのだ。
 彼が話したかったのはそれが引越し前じゃなくて良かったというだけのことなのだが、私にしてみれば大事なのはそこじゃない。
 この人はいつもこうだ。唐突に何の脈絡もなく、挨拶のように重大事項を投げて来る。

 ジャンニと別れたことが六番隊に知れ渡るのに比例し、彼の情報は一切入って来なくなった。だから私の遠征中に死にかけていたことなど誰も知らせなかったし、彼が診察に来ていることも神経質なほどに隠された。
 それが居心地が悪く、私は結局、遠征後そう経たないうちに軍を退役した。
 今更ながら、あんなに丈夫だったのに薬でコントロールしなければ通常生活も営めない体になってしまっていることや、当時は1年くらいの余命宣告を受けていたことを知って驚いている。
 それを言ってくれてれば良かったのにと思うが、できなかったのも仕方ないなと今ならわかる。
 自分で全部解決しようとする癖があるのは彼に家族がいなかったからだ。だから私があの時すべきだったことは、ただ単に、ちゃんと話して欲しいと正面から頼むことだったのかもしれない。

 今のジャンニは、周りの人の協力がなければ仕事どころか生活も続けられない。
 そう考えると、体を壊すというのは、彼が解決すべき人生課題のために必要だったのかもなとも思う。
 人に助けを求めるという課題が命と引き換えにしか解決できなかったのだとしたら、彼にとっては本当に根本的な問題だったのだろう。

 まあともかく、ジャンニは今や弟であり、頼りになる親友であり、親仲間でもある。だが私にとっては、色々と手を貸した方が良いちょっと天然な後輩という印象が根強い。
 普段の彼からは誰にも想像がつかないであろうそういうところを分かってくれ、世話してくれる誰かがいればいいのになあと、母や姉のような気持ちで私は思っている。

「私」六番隊所属衛生兵・看護師

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