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ヴァサラ幕間記10

2 青年ヴァサラと水棲妖怪

 眼下を見下ろせそうな山道に来たヴァサラは、今までと同じように木々を分けて山肌を少し下り、太そうな木を支えに身を乗り出してみた。
「すげーなあ」
 何に感心しているかというと、何度見下ろしてもそこに湖があることについてだ。もらった地図によると道はやがて湖から離れる方向に向かい、それを降りると中核都市に着くはずなのだ。だがそろそろ丸二日になろうというのに、少し離れたりまた戻ったりしながら湖がずっとある。何て広い湖だろうか。
 森や山は得意分野だ。このまま進むことも特に苦痛ではないが、ちょっと飽きたのは飽きて来た。
 この山の下は大体湖だろ。
そんな適当なアテで、ヴァサラは山裾まで降りてみることにした。

 獣道すらない山道を身軽に下りて行くとだんだん平地になってゆき、最後に針葉樹林の林になる。背が高いそれらの中を雑草をかき分け進んで行くと、急に強烈な光が瞼を刺した。手で光を遮り何とか薄目を開く。
 え?空…?
山の上から降りて来たはずなのに、目の前全てが雲の浮かぶ青空だ。
 湖の水平線を境にして空が水面に映っている。頭ではわかる。なのに、上下がわからない感覚に目が眩む。
「何者だ」
不意にどこからともなく声がした。と同時に湖に映っている空がサアッと溶けるように開き、水中に、水底まで広がる村が現れる。
 山があり、谷があり、家屋があり、煉瓦の大きな建物がある。その光景は盆地にある村と変わらないが、全て緑色植物に覆われているのが特徴的だ。谷底は青く沈んでいる割に不思議と暗くはないが揺らめく水のせいであまり見えなかった。

 ヴァサラは思い出すものがあり、荷物の重量のほとんどである図鑑を出した。何度も見たそれを繰り、海底都市のページを開ける。
「それはここではないな」
背後からの声に
「だよな。ここ湖だもんな。知らない内に海に着いてたのかと思ったけどよ」
と普通に答えてから、はたと振り返る。尋ねたいことはいろいろあったのに、全く違う言葉が口をついて出た。
「…あんた、キレイだなあ」
本当に美しかったのだ。薄い浅葱色の長髪と瞳を持つ男性でも女性でもない整った容姿、グラスハープのような響きを伴う耳に心地良い低音の声。抜けるように白い肌は陽光が照ると淡く七色に光り、肩から肘にかけてと腰から足下にかけてはヒダがある薄布のようなものが纏わりついている。それは宝石を散りばめたように煌めくので上等なドレスのようなのだが、驚くべきことに服でも何でもなく、胸びれや尾びれの役割を持つものなのだった。

 組んだ膝に肘をつきながら、湖の門番は、自分が今ここにいる経緯を身振り手振りで話すヒトを見ていた。目の前の、自分と全く違う風体の相手をどう思っているのかは分からないが、どうも新しい友人を得たぐらいの感じで延々と話してくる。ヒト相手に湖が開いたのも理解できないし、そういえばこの者の名前も知らないと言う奇妙な状況だ。
 兄弟のこと、図鑑のことと話は色々飛んだが、国の話になった時に門番は言ってみた。
「サコクと言ったか?国を閉じる事の何が悪い?例えば我々はこの湖から出ずに暮らしているが文化と歴史が守られている。また長の権力が絶対的なことは平和をもたらしているし、身分の固定化は仕事の固定化につながるので親兄弟を見れば自分の人生も分かる。気が楽ではないか」
 即刻返って来るような反論であれば、論破する言葉はいくらでもあった。
 だが、目の前のヒトはしばらく考えた末に、ポツリと言った。
「あんたの言ってることは、わかる」

 人間の寿命は自分たち水棲種族であれば成人にも満たない年齢。ヒトとは幼いまま生きて死ぬもの。
 だがそんな未熟な生物の、一言の反論もない「わかる」が薄い刃物のように痛みなく奥まで入った。虚を突かれた刺し傷は存外深く、門番の息と時間を一瞬止める。

 湖から出る者を、別の種族を、新しいことを排除して来た自分。
 理解できる、理解できない、というだけのものを正しい、間違っていると評価と同等に扱って来た自分。
 そうして幾多の意見を切り捨てて来た、自分。

 …私も歳をとりすぎたな。
考えることが色々あってまとまらない、と顔に書いてあるような、隣のヒトを見る。
「全くお前たちは幼い」
それから、少し笑って付け足した。
「良いな」
 門番は生まれて初めて他種族に興味を持った。
お互いに、きっと一生理解し合えることはない。だが、理解できないという在り方でそこにいることを尊重する。認めるというのは、多分、そういうことなのだろう。
「お前、名は何という」
目の前には、ヒトという種族の一部ではなく、一人の個人がいた。

 青空だけが広がる元の景色に戻った湖を、ヴァサラはやはり不思議だなと思って眺める。今は水底があり、この下にあの村落が隠れているなんて信じられない。
 門番は、この国では、何か困ったことがあれば私の名前を使えと言っていた。
だが。
「門番って職業名じゃん。名前なんだったんだよ」
ため息をつくと、ヴァサラは図鑑の土埃を払い大事に袋に入れる。地図を見るに、しばらく湖に沿って行く方が目的地に近そうだ。

 世界一美しい妖怪と称されることもある水棲種族はこの国の象徴とされる。そしてその長は代々〝ゲートキーパー〟と呼ばれるということだ。

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