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ヴァサラ幕間記9

2 青年ヴァサラと在野研究者

 確かに山は遠く霞んでいた。
 だが数日間進んだ今すらまだ遠く霞んでいるとは思ってもみなかった。健脚である自信はあったし人より体力もあるつもりだったので、最初の頃こそ早く歩いてみたり走ってみたりしていた。だが山は全く近くなったようには思えず、諦めた今は人生で一番ダラダラ歩いている。連日連夜、周囲には地平線、地平線、山、山、地平線。修行か同じ場所を歩かされる呪いとしか思えない。
 さらに夜になると、身を寄せる木立一つないのに1メートル先も見えない真の暗闇になる。森で育って来たこともあり闇には慣れているつもりだった。だが何も見えない上に手で探れるような高さがある物がないという、この覚束なさは経験したことがない。
 周囲が暗くなりかけると進む気も萎えてしまい、ヴァサラは体を投げ出すようにその場に腰を下ろした。そのまま大の字に寝転がる。疲れてはいない。だが、自力ではどうにもならない強大な自然に早くも心が折れそうだ。
 少し丈高い草むらの中から見上げると、夜空の底に赤い夕陽が沈殿している。そろそろ空が水色に見えるほどの、満天の星が輝く時間が来るのだろう。
 これだけは飽きないんだよな。
思いながら一番星を見ている内に、意識が溶けていった。

 横顔に生物の体温を感じたヴァサラは反対方向に身を翻し、低い姿勢のままカサーベルを構え…ようとして、それがないことに気づいた。だが一瞬後、そんな動きをしてしまったことを後悔する。
 目の前には、骨が太くずんぐりむっくりした馬とそれに乗った作業服の女性。白馬に映える薔薇色の髪の奥で、見開いた目がキョトンとこっちを見ている。先ほどの体温は馬の鼻面だったようだが、馬はもう興味なくそこ辺の草を食んでいた。
「驚いた…生きてるのね」
 女性はたまたま、数10キロ先の隣家に食材をもらいに行く途中だったらしい。一泊の宿とまともな食事を確保するためにそれを手伝うことにしたヴァサラだが、受け取った食料袋は数もありずっしりと重い、積むのも降ろすのも大変な代物だった。片手で袋を支えながら器用に手綱を操る女性は、並んで歩くヴァサラに道中色々話す。草原には実は魔物も野生動物もいること、この草原は国と国の端境で騎馬民族がいること、行き倒れが結構いて、中には国境を越えた逃亡兵もいること。その話をした時、女性は風に靡いた髪を押さえながら少し遠い目をした。

 星空の下で樽風呂なるものを満喫したヴァサラが家の中に戻ると、女は椅子に膝をつきながら大きな地図をテーブルに広げていた。片手にあるのはビールジョッキだが、髪は高い位置にまとめてメガネをかけ、覆い被さらんばかりに地図を眺めている。前傾姿勢はどんどん深くなり、ついにはテーブルに登り地図に膝をつき、穴が開くほど地図を眺めだした。
 ヴァサラはかけようとした声を飲み込んだ。目が離せないほどに、女の胸踊る気持ちが伝わって来る。女は地図を見ながら旅をしているのだった。
 どのくらい経っただろうか、女はふっと満足げに息をつき地図から顔を上げた。机から降りて椅子に体重を預けると一人微笑む。
そしてヴァサラに気づいた。
「何だ。いるなら言ってくれれば良かったのに」
女と一緒に砂漠や山や海を旅していたヴァサラは、足元の台を急に抜かれたように現実に戻った。ついていかない気持ちをやっとのことで引っ張り戻すと、どうしても言わずにはいれなくなった。
「あんたすげーな。何でこんなところにいるんだよ」

 「何でって…」
言いながら、女は、自分が押し込めていたものの栓がふわっと開くのを感じた。

 古生物学者だった父に手を引かれ、いつものように「行ってきます」と母に手を振った朝。いつもと同じ、数日間の発掘のためのキャンプ。その数日間で作られていた国境の柵を越えようとして警備兵に乱暴に追い返されたされた瞬間。毎日毎日、せめて子どもだけでもと懇願しに行った父の背中。父に手を引かれながら見た警備兵の目には確かな殺意があり、女は父親に言った。
「もういいよ、私は平気だから」
 この発掘が終われば、と父は言った。これはすごい化石なんだ、こんなに完璧に古代獣の骨が残ってる例は世界でもないぞ。これを発掘し終わったら国が調査に来るだろう。化石と一緒に国に帰ろうと。
 毎日父の発掘を手伝い、一緒に食事をして肩を寄せ合って眠った。父は寝物語に、膨大な自らの知識を女に語った。その時広げていた地図を広げ国や山や川を眺めていると、今でも国同士の歴史や人種のつながり、生物の分布や神々の物語が見える。
 国境の壁は頑丈になる一方で、女はもう国へは帰れないだろうと思っていた。でも、こんな生活が続くのも幸せなのかもしれないとも思っていた。

 適当な言葉を探すためのしばしの沈黙の後、女は言った。
「ここにある宝物を守るために」
目の前の白髪の青年は、まるで全部知っていたかのように頷き、屈託なく笑った。

 あんなに遠かった連山の一角で、ヴァサラはそこだけ削り込まれた道に立っていた。この道を通ると比較的簡単に隣の国へ入れるそうだ。昨日は暗闇でさっぱりわからなかったが、何と昨夜入っていた樽風呂も遠目に見える位置だ。
 左右は切り立った崖で、そこに打ち込まれた足場とロープを伝い女は器用に降りて来た。先に降りていたヴァサラの隣に身軽に飛び降りる。
 なるほどこりゃ作業着だなと思いながら、ヴァサラは崖を見上げた。20メートルほどの崖いっぱいに、レリーフのように骨が浮き出している。貴重だと言われても正直よくわからないが、ここまで発掘するのにとてつもない労力が必要だというのだけは素人目にも理解できた。
「こんな中途半端な状態でね、巨人族の化石を掘りに行くって急にいなくなるんだもの。もう私が続きをするしかないでしょ」
 女はさっぱりと言って明るく笑った。
 自分の国の出身者が所属する国も宙ぶらりんのまま、誰にも知られずに一人巨大な化石を掘り出し続けている。そんなことを全く知らなかったことが、せっかく知った今何もできないことが、たまらなく悔しい。
 何とも言えない思いで化石を見上げているヴァサラの横で、女が
「あ」
と沈黙を破るようにつぶやいた。作業服のポケットから折り畳んだものを引っ張り出し、ヴァサラに渡す。
 古ぼけたそれを何気なく開いてみたヴァサラは驚いて女を見た。これは昨日女が見ていた地図だ。
 その表情を見ると女は言った。
「あんたも地図くらいいるでしょ。それに、あげるんじゃないのよ」
いたずらっぽく笑い、ヴァサラを見上げる。
「それ父のだから。会ったら返してあげて。それまで預けるだけよ」

「責任重大だなあ」
言葉の割にはさして困った風でもなく、青年は開いた地図を眺めている。女はこういう時の別れの挨拶はどう言えばいいのだろうと考えていたが、
「おわ、この先でかい湖あるじゃん」
唐突に言った青年は、地図を見ながらそのまま歩き出して行ってしまった。女は何となく背中を見送っていたが、かなり行ったところでやっと気づいたように立ち止まり、こちらを向くと手を振っている。その一連の行動は何を考えたのかが手に取るようにわかるようで、女はついクスリと笑った。
 普通に考えれば地図が父親の元に届く可能性はかなり低いだろう。それでもあの青年に託せば必ず届く気がするのが不思議だ。
 青年の姿が曲がり角に消える。誰もいなくなった道の奥では、日向と影に分かれた山が霞みながら青空を区切っている。いつもと同じ景色が今日は少し新鮮に見えた。

「さてと、今日もやりますか」
 女は一人ごち、砂混じりの風の中崖を登る。
宝物を守る、いつもと同じ日をまた続けるために。

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