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「ステキな思い出にする」という行為は全然ステキじゃないからな

昨日、早速たくさんの反応と温かいサポートをいただきまして、今日も文章を書く元気が生まれました、ありがとう。野花紅葉です。元気のなさを愛さないぞ!


さて、今からボロクソ書く(雑な予告)のは、「思い出=過去にしていく行為」のことです。つまり、今/未来の自分が振り返ったときにある過去を肯定的に捉える/捉えられるように生きていくこと、ではなく、あることを過去にしようとする時、それを「ステキな思い出にする」ことについて書きます……書きます、といいつつ、もうタイトルで全部言っちゃってるんですけど。

思い出にしていく=過去にしようとする、というモチベーションって、それを現在や未来の自分からなるべく遠いところに置いていきたいとか、切り離したいとかって意図があると思っていて。そんなこと本当はできないと知りつつも、なるべく無関係になりたいというか。

大事なのは今だ未来だと言いつつも、なんだかんだ過去って気になっちゃう。だって地続きだし。でもどうしようもない。だって消せないし。そうして、けれども、どうにかこうにか受容して生きていかねばならぬとなった時、選択肢の一つに浮上する「ステキな思い出にする」という処理方法。

もちろん心当たりある。ていうか全然悪いことだとも思わない。でもそれ全然ステキなことじゃなくね?とは声を大にして言いたい。

「ステキな思い出にする」ことで何かを「過去にする」のは、現在の自分の意思によるものですよね。だから、「ステキな思い出だったな」「ステキな思い出になったな」と結果的に振り返って思うこととは全然違う。なんかここ混同されてる気がしてて。
人生が進んでいく中で、経験が重なっていく中で、学びを得ていく中で、とある過去が「ステキな思い出になる/そう思える」ことはステキだと思うのです。でも、明確な意思によって「ステキな思い出」と名づけて、力技で過去とする(=今の自分と切り離す)行為、ステキですか?果たして。

繰り返しますが、それを悪いことだとは思いません。必要な時もあるだろうし、前を向くためという動機はステキだし。ただ、所詮は処理に過ぎないその行為自体は、別に全然これっぽっちもステキじゃない、はず。はずなんだけど、ね〜。

明確な意思を持って力技で「ステキな思い出にする」くらいのエネルギーがあるなら、明確な意思を持って力技でも「ステキな現実にする」方が何億倍もステキだし、明確な意思を持って力技でもなんでも「ステキな現実にしてくれや」と思ってしまう。思い出じゃなくて。過去にするか現在・未来にするかは、だって今なら選べるんだから。

とはいえ、思いはするのだが難しい。難しいから、難しいけど、せめて「ステキな思い出にする」こと自体のステキじゃなさは、意識したままでいたいなと思います。

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