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しゅうえん

この2ヶ月ほどでホウレイ線のクッキリ具合に加え顎下の弛み著しく、老いに抗えない己を自覚する。
これは娘を産み落としし30代の頃、たまたま撮ってもらった写真の自分自身の変貌に愕然とした時の哀愁にも似ている(産後の肥立ちが良すぎたやつ)。

何故か。
夏が終わるから、というだけではない。
去る2024年7月15日。
その日突然6年間推し続けたバンドが終焉を迎えたのである。

振り返れば6年前のあの頃は大層ブラックな職場にいて、連日の無意味な残業とギスギスし放題の人間関係、ピッキピキに気の抜けないルーチン業務に心身ともに疲弊していた。
そんな日々の中で息抜きに流していたYou Tubeが(空気を読んだのか否か)突如流してきたMVがあった。

ヒステリックパニック
シンデレラ・シンドローム

なんじゃこりゃあ!(いい意味で)
狂気の高音パートとクッソイケボなクリーン、そして見目麗しい姿から発せられる仰天デスボの地獄度。
最高か。
ここが夢にまで見た到達点か。

どっちがバンド名でどっちが曲名なのか暫し悩んだが(バックドロップ…とかアシュラ…とかね、あるからね)
”ヒステリックパニック”というのがバンド名だと判明する。
ヒステリックパニック。略してヒスパニ。
以来、愛を込めて「ヒスパニちゃん」と呼んだ。

そこからヒスパニちゃんに傾倒するのはあっという間だった。
元々ラウド系好き、ポップ好きの社会不適合者なので曲も歌詞もドンピシャ。たまらん。
しかも、である。
彼のバンドは名古屋を本拠地として活動していたのだ。
名古屋大好き名古屋人の端くれとしてはこれ一層惹かれてしまう。
折も折、当時ヒスパニちゃんは5枚目のアルバム「HypnoticPoison」の発売を控えていた。そのおかげでアルバム発売に際してのものすごい神タイミングでリリイベにも参加できたのだ。
そして続くニューアルバムを引っ提げてのリリースツアー。
私の住まう石川県にもやって来てくれてもう感謝感激雨霰。

サラッと書いたがリリイベも地方のライブハウスも人生初であった。
半世紀ほど生きてきてこんな初めてを貰えたのは僥倖でしかない。
今でも思い出せる。
近鉄パッセのタワレコで「特典券」のついたCDを手にしたときの心拍と血圧の上昇具合を。特典券を矯めつ眇めつ眺めながら開始時刻を待ったコーヒーショップの小さなテーブルを。

ワイのツイッター()より


囲みチェキでは生まれたての子牛のように手も足も声もブルブル震えていたというくらいしか記憶がない。
記憶がないながら「なんかすごいしあわせだったナァ」ということだけは覚えている。

そしてその後2,3ヶ月のうちにYou TubeのMVは制覇しCDも流通盤は全て購入した。
ライブも行ける限り、行った。

20代で母を亡くして以降は後悔のないように一日一日を生きるということが私の人生の方針だったので、何事に於いてもチャンスは逃さないというのが基本スタンス。
地元ライブは欠かさず、東名阪は日程に無理がない限りは弾丸だろうが0泊2日だろうが参戦していった。
中には夕方まで他のフェス参戦後、夜のライブに滑り込むという楽しい現場もあった。

余談ではあるが当時名古屋の実家には父が一人で住んでいた。
姉も妹も市内に住んでいたのでそれほど心配はなかったのもあり、私が帰省するのはそれまで年末年始の3,4日程度となっていた。
しかし、である。
ヒスパニちゃんを知ってからの私は断然帰省することが多くなっていた。
名古屋を拠点としている以上、名古屋でのライブが結構ある。
故に帰省する。寂しがりやの父は歓待してくれる。
父と二人の実家はなんだか面映ゆい感じもしながら、それでも確かに多幸感を味わえた。ライブ当日に名古屋入りして一泊し、翌日の午後帰るという短期滞在ではあるが家の掃除をしたり買い出しに一緒に行ったり食事をしたり。それなりに親孝行というものをしたのではないかと思っている。
そういえば最高に親孝行ができたかもと思ったのは年明け1月4日のライブ(「明けましておめDEAD!今年もよろSICK!」という恒例ライブがありましてな)に参戦したときのことだ。
それまで1月2日にはとっとと帰ってしまっていたのを4日まで居座る私に父が
「いっつもよぉ、三が日には誰もおらんくなってまったで今年は寂しないなあ」
笑いながらそう言った。
なんかすこし、泣きそうになった。

これもまたヒスパニちゃんのおかげである。

さて、そうこうしているうちに時は2020年。正月にいきなりの$EIGO氏脱退の報せ。どうなるヒスパニ!と思いつつも恒例のライブへ。

ワイのツイt……

2020年に行けた最後のライブは3月東京で行われた「AVEST」。
これもかなりギリギリであった。というのはご承知のとおり疫病の蔓延のせいである。密集を余儀なくされるライブハウスはイの一番に槍玉にあがった。出演中止になったバンドもいたし、参加できなかった人も沢山いたであろう。滑り込みセーフ(自己判断)で上京を果たし、参戦できた私は幸運だった。
で、そんな疫病のあおりをくった$EIGO氏の卒業ライブは延び延びとなり配信ライブとして夏に行われ、画面の此方側でひとり寂寥感に……というよりこの時は正直不安な気持ちが大きかった。ギターもボーカルも彼が担っていた部分の魅力が大きくて、そこが消えてしまったらと考えた時に今までのヒスパニちゃんではなくなってしまうのだろうという予測がついたからだ。

けれども2021年1月に出されたEPアルバムは変わらぬ勢いのヒスパニちゃんだったし、病み具合もPOPさも益々盛ん。
2月には有観客ライブも復活。私もイソイソと14日のライブに参戦。
4月には久しぶりに大阪へも遠征し、続く11日はDIE ON ROCK FESへ日帰り参戦(ただ、この日実家に寄らなかったのを一生悔やむこととなる)。
8月29日、829(パニック)の日は当然の如く出席。
アルバムツアーも始まり、制限はありながらもライブに行ける幸せを実感した。

そして2022年のライブは4月10日のトリニティ・ライオットからの参戦。
折も折、この日は父の一周忌でもあった。
気を利かせた父が法事後のライブを用意してくれたかのような。
他にも対バンにも行ったし、829の日は東京大阪にも行けたし自分の中ではやりきった感がある。

2023年は恒例の年明けライブから謹んで参戦。
3月4日のAVEST、関東に滞在してたらそりゃあ翌日のHACHIDORIにも行くよねえ。
4月は新譜に興奮しつつCD購入。ロンTもゲットする。
10日、父の祥月命日のお参り後にAppare!主催の4マンへ。
6月29日は名古屋にてビレッジマンズストアとの対バンへ。
翌週7月2日は弾丸大阪「なつのおもいで」。
8月19日、取り壊しの決まった実家の最期の姿を見た後「Burning Diamonds」で感情も昇華。
4ヶ月しか経ってないのに新譜とかマジ感謝。限定CDは当然購入。
9月2日のお誕生日ワンマンへは0泊2日で駆けつけてご満悦。

そして迎えた2024年。
ここ石川県は大地震に見舞われ、遠征どころではなくなった。
ようやく落ち着いた3月29日、名古屋でのFABLED NUMBERとの対バンから
4月12日のワンマン、5月18日のフリーダム名古屋。
毎年恒例の「なつのおもいで」には今回ファイナルの名古屋にしか行けなかったが最高のライブだったと思う。
整番も良く、前方に位置取れたがこの日のオーディエンスは年齢層が全体的に若かったような気がする。繰り返されるWODもサークルも転がってくる人々も、何もかも激しくて今までにないほどに楽しくて。でも後半そっと後方へと移った。
そしてふと『もう次のライブからはこの辺でワッショイするくらいがちょうどいいのかな』ってなことを「全日本ぬるぬる音頭」で見ず知らずのお方と肩を組んで揺れながら思った。

「次」がもう二度と来ないなんてその時は何も知らずに。



それはヒスパニちゃんのライブで何度も、何度も繰り返し、繰り返し聞いていた言葉ではあった。
自分の哲学でもあった。
「今日が最後」「次はないと思って今、この時にかける」。
推しは推せる時に……というのは今や市民権を得た言葉だけど、いつだってそのマインドで進んできた。
周縁のバンドからの活休、脱退という報せを沢山見聞きしていたから尚のこと推し事に励んだ。
グッズもチェキもCDもライブも、尽力した。
だから「もっとライブに行っておけば」だとか「解散なんて悲しい・淋しい」という言葉はこの感情に相応しくないと思った。
ただ、「辛い」。
辛かったのだ。
胸のわだかまりを言語化して音に乗せてくれる稀有な存在と、この先未来を共にできないことが、ただただ辛かった。

大人にもなりきれず
子供にも戻れない僕ら
立ち止まらず走っていこう
この長い旅路をどこまでも

「人生ゲーム」ヒステリックパニック

どれだけ願ったって 拝んだって
居ないカミサマに手合わせて
祈って頼ったって 意味無くね

「ノット・イコール」ヒステリックパニック

代わり映えの無い
あの当たり前は
今やもう無い
楽しかったね
鬱陶しく感じた過去も愛しい

「same」ヒステリックパニック

修羅場 土壇場だ!どったんばったん
途端ばたんきゅ~です

「だいたいメランコリック」ヒステリックパニック

ハナレバナレになるなんて
逢えなくなるなんて初めから分かっていた


「おわかれかい」ヒステリックパニック

普段口にできないような感情をライブハウスでは臆面もなく声に出せた。
大声でシンガロングして飛び跳ね頭を振りまくる。
職場では日常では微塵も見せない姿を、当にそこでは解放できた。
その分厚い扉の向こうでは何もかもが「非日常」でありつつ「素」だったのだ。


人生は扉を開けることだ、と尊敬する牧師はおっしゃった。
開いた扉に意味のないものなどない。全てが必要。
でもそれは開けっ放しにしたままではいけない。
開けることができたのなら必ず閉じることもできる。
閉じるからこそ次の新しい扉をまた開くことができる。


期待を持たせたくないからと「活休」ではなく「解散」を選んだヒスパニちゃん。無情ではない。むしろ誠実。そして「◯月◯日をもって」なんて言わないで「本日をもって」と言ってくれたところまで完璧。
だってそんなカウントダウンなんかしたくない。
こちらだって潔く扉を閉めたいじゃないか。

あの日、私の中の「ヒステリックパニック」という扉はパタンと閉まったけれどそれは消えて無くなる扉ではない。
ライブは終演してしまったけれど、彼らの音は声はいつだって耳を欹てればそこから聞こえてくるのだ。

ヒステリックパニックというバンドに出会えて、6年を過ごすことができて
本当に良かったと心から思う。
これからも私はライブハウスの扉を開けてゆくだろう。
他のバンドのライブを観るために、あの薄暗い異空間へ足を運ぶだろう。
そしてその度にヒスパニちゃんと過ごした濃密な夜を思い出すのだ。

あの扉を開けさせてくれてありがとう。
その内へ迎えてくれてありがとう。
この先もずっと好きでいるよ。
活動「急死」してしまったけれど。

ずっと。

もう二度とハナサナイ もう二度とハナセナイ
「アナタが死ぬ」ほど好きでした

「ガチ恋ダークネス」ヒステリックパニック

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