見出し画像

もう手の届かないところに

50年以上生きていると「あの時ああしたのは間違いだったんだろうか」とか「もしあの時ああしてたら大きく変わっていたのでは」とか
そういうことを思うことが一つや二つではない。
人間なんだかんだ言って最適の選択を続けていくことなんざ無理な話で、むしろ間違いばっかりだったと思うような軌跡を連ねていくだけでもあり。

かつて我が実母が存命の頃、はっきりとこう言われた。
「今の彼と別れて私と一緒に生きて欲しい。もるちゃんには申し訳ないけど私が、絶対にもるちゃんが後悔しないようなお婿さんを探してくるから」
当時、闘病中だった母は寂しさもあったのだろう。しかし姉妹のうち誰より私に側にずっといて欲しいと思ってくれたことが思いがけず嬉しい発言だった。
しかしながら。
「彼」は諦めなかったのだ。
幾度となく別れ話を切り出し、遠距離恋愛ということもあったのに「彼」はしつこく粘り強く、別れることについて首を縦に振ることはなかった。
そうこうしているうちに母は鬼籍に入り「彼」は「夫」になった。

     つよい(遠い目)

そして父のことである。
かつて心臓(弁膜症)の手術をした時、父は次姉の県にある病院に入院治療をしていた。
ありがたいことに姉は足繁く病院へ通いあれこれと父の面倒を見てくれた。
姉妹として大変感謝したものだった(が、それは遺産を沢山もらいたいがためのスタイルだったと後に知ることとなる)。
その時に次姉の家で父を引き取って一緒に暮らす、という話が持ち上がったことがあった。
遺産目当ての姉には至極当然の提案だろうが我々蚊帳の外の姉妹は少し驚く。でも常に誰かが見守ってくれているなら安心かも、と思った矢先に大反対したのは当事者である父本人。
「わしは絶対名古屋の家に帰るでな」
その一点張りで、結局最短で退院・帰宅となったのであった。


今でも思うのだ。
私が「お父さん、金沢で私と一緒に暮らさん?」
そう言っていたらなにか変わったのかもしれないと。

死人に口無し。
長姉曰く
「お父さんは誰が何を言っても名古屋におりたかったんだでしょうがないわ」
確かに父ご自慢のあの家は彼が生きている限りは守らねばならない大事なものだったに違いない。
でも。
でも、と思うのだ。

自意識過剰かもしれない。
思い過ごしかもしれない。
でも、時折帰省して父と共に過ごす時間の静けさは日常に染み入っていて
こんな風にずっと過ごせるならいいのにと思っていた。

父もそう思っていてくれたという確証はないのだけれど。

お金は無いよりもあった方がいい。
でも、父が・実家がなくなることで得るお金なんか
本当は欲しくなかった。
ずっとずっと父も実家もそこにあって欲しかった。
もう何もかも遅いんだけどね。


この先また深い決断をくださないといけない事態が起こるだろう。
その時にはちゃんと掴んでおきたいものはこの手に握っておこう、と。
それだけは今胸に刻んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?