子曰く、私曰く、

中学受験用の塾でバイトをしている。先日、6年生の国語の授業を担当した。国語は他の教科と違い、黒板でぶっつけ本番で解いて、おかしなことをしたらテキトーなことを得意の早口でべらべらしゃべって煙に巻くことができないので非常に面倒くさい。しかも解答用紙を見ると記述問題しかない。さらに頭にくることに解説が存在しないときた。こんなものをいい加減なバイトにやらせるなよと本当に思うのだが、仕方ないので自力で解くしかない。 山田詠美のエッセイだった。そのまんま自分の話かと思った。転勤族の子供が、各学校で聖人君子になろうと奮闘する話である。自分が一番広い世界を知っており、たくさんの人間と会っていて心の機微に敏感で、自分がすべての人を愛せると思っていた。この世界は美しいと思っていた。傲慢だった。ぐさぐさ刺さりまくった私は、やる必要のない400字感想文にも手をつけていた。

5回転校した小学生の頃のことを振り返る。せいぜい1年しかいない場所で、私の生きるモットーは”広く浅く楽しく”であった。

1つあの読解文に異論を唱えるなら、田舎の教師はよそ者に優しくない、ということだ。沖縄の1学年に40人1クラスしかなかった学校では、大体の不祥事の犯人は私だったことにされた。まったく身に覚えのないことで別室に呼ばれて、「近所の人からこういう通報がありました。反省しなさい」と説教される。それは私じゃないと言っても、「すべての特徴があなたと一致しているのです、あなたなのは分かっているのです、自分の罪を認めよ、キー!」と更年期女教師が詰め寄ってくる。まあ不都合を自分たちの仲間内から出すのではなく、すべてよそ者のせいにしてしまえば綺麗に収まるというものであろう。聖職者である教師が寄ってたかって7歳の子供にどういうつもりなんだろうか。一緒にしまじろうとかおジャ魔女どれみとか見ませんか。いつも「あい、あい。すいません」と言って聞き流した。どうせまたすぐ転校するのでどうでもよかった。

これをひどい話だと思うだろうか。

理にかなった話である。転校先は帯広のGoogleストリートビューも入らないようなところだったり、横須賀の親が農家か漁業かJAの三択くらいの場所だったりと田舎が多かった。田舎の小さなコミュニティにはそれぞれの常識がありそれぞれの規律がある。それが分からないよそ者は本当に”よそ者”なのである。刺客になる場合もある。異端者は吊し上げにされる。

その場所に染まって早く馴染むという選択肢もあるが、私はそれがどうしても気持ち悪かったので、どこの場所でも絶対に染まらないと決めた。また極端なことをしていたわけであるが、その頃は染まらないからこそ新しい環境で、お調子者かつ目立ちたがり屋の私が発揮できる自由さがあり、どこへ行っても結構楽しく過ごせていたのでまあよい。ただ、これで哲学を開いたと思って調子に乗って中高一貫校でもやっていたら、「心を開いてくれなくて悲しいです」とか先生経由で苦情は来てしまうし、卒業時に一番仲の良かった友人に「学校の雰囲気に染まらなかったよね」と言われてしまうしと普通に浮いていたらしいのでさすがに反省した。

コミュニティは宗教となんら変わらない。
「子曰く、鮑魚の肆に入るが如し」らしい。悪い環境にいるといつの間にか自分も悪臭に染まり自分では分からなくなってしまうと孔子が言っている。善悪の問題ではなく人は環境に染まり、染まったことにも気付けない。

大学1年の時、”インカレテニサー”というものに入った。人数制限をしている閉鎖的なサークルであった。気持ちの悪い場所だった。サークルの世界がすべての世界の常識なのだ。サークルで面白い人は世間で最高に面白い人間とされた。サークルに馴染めない者は社会不適合者の烙印を押され悪口を言われる。私が半年ほど経ってだんだん行かなくなると、協調性がないと散々叩かれた。幹部交代の前に辞めると言うと、「そんな無責任じゃ社会でやっていけない」とか「面倒ごとから逃げる人間じゃ何にもなれない」とか洗脳された部員共からたくさん連絡が来るわ、話し合いの場を設置されるわ、とんでもないことになってしまった。「別にここにいても何も学ぶものはないので」と言ったら部長がぶち切れて実質辞めさせられる形になってしまいました。

コミュニティは学校しかりアルバイトしかりである。Twitterしかりである。特定のコミュニティでちゃんと生きていくことを学ばなければとはいえ、その小さい世界がこの世界のすべてであると勘違いしてしまうと何も見えなくなってしまう。何にもとらわれずこの身一つで広い世界を生きていくということを意識していなければならないと思っている。

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