見出し画像

一夏の夢よ、どうか永遠に/’21月組『ダル・レークの恋』②

はじめに

 この記事の一番初めをを最上の喜びと祝福で飾れることを心から嬉しく思います。

月城かなとさん、海乃美月さんが次期月組トップスター・トップ娘役スターに就任決定……!!!本当におめでとうございます。

 私もその一人ですが、この発表を願いながら確信しながら、でも期待しては裏切られたあまたの経験を思い出しては、いっそ早くとどめを刺してくれ!とやきもきとしていたファンの方は多いのではないでしょうか。
いやほんと、ファンの皆さまも心からおめでとうございました。わたしたち、月組を、タカラヅカを好きでよかったね……(誰)

さて、これでようやく、noteを開設した理由でもある『ダル・レークの恋』への恋に幕を降ろせます。ラッチマンとカマラが再び巡り合えたから。
最後にふたりの話をして、深い深い湖の底から浮上することにいたしましょう。


いつの日かもう一度

 『ダル・レークの恋』は、ラッチマンとカマラの切ないすれ違いを、人間の愚かさや弱さを巧みに炙り出しながら丁寧に描いた大人の悲恋ものである。
 だが、今回の2021年月組公演は、悲劇の中にもどこか希望の余韻を感じさせる演じ方だったように思う。
 そう、「いつの日かもう一度」。芝居の最後にラッチマンが歌う♪まことの愛の歌詞通りに。

まことの愛
作詞/酒井澄夫 作曲/西村耕次

知らない街に ただひとり
深い深い霧の中
誰か呼ぶロ笛に
心をふるわせる
時の流れも 夢見るように
夜霧の彼方に 消えてゆく
遠い故郷
インダスの流れにも似て
果てない旅はどこまでも
まことの愛 求めて

君の瞳に燃えた 不思議な炎
それが愛
僕は信じてる いつの日か
もう一度 君の心を
教えてほしい

君の瞳に燃えた 不思議な炎
それが愛
僕は信じている いつの日か
もう一度 君の心を
教えて欲しい

(2021年月組『ダル・レークの恋』公演プログラムより抜粋)

 それと言うのも、月城かなと演じるラッチマンと海乃美月演じるカマラの相性がものすごくよかったからに他ならない。このふたりならもしかしたら、と思わずにいられないのである。


軍服のままのラッチマンと棘を抜かれたカマラ

 Twitterでも散々言った気がするが、私のラッチマンとカマラの解釈はこの見出しの通りである。
 軍服を脱いだ何者でもない自分を愛してほしいと求めて止まなかったラッチマンは、結局自分が軍服を脱いでいなかったことに気づかず、「私が愛したのはあなたの着ていた軍服です」と全身を棘で覆い身を守っていたように見えたカマラは、実はとっくにラッチマンに棘を抜かれ丸裸になっていたことに気づかなかった。
 ふたりがそれぞれを縛っていた「軍服」と「棘」の存在に気づき、赦し、解き、そして縛られていた過去ごと抱きしめ合えていたら。悲劇は起きなかったように思うし、だけど傍からは簡単に言えてもそんなことはまあ無理だっただろうなとも思う。あの夏の、ダル・レークの湖の上で起きたことは、そのあとの舞台での結末は、あのときのふたりにとっての精一杯だったに違いない。
 どうにももどかしく愚かしく、それゆえに美しかったラッチマンとカマラについて、丁寧に思い出していきたいと思う。

■月城かなと×ラッチマン

(※ぜひリンク押してみてください!下にある海ちゃんのも!ニュースが、ニュースが……!トップコンビが発表されるとそのスターさんのスターページからも確認できるんですね、知らなかった。愛……。)

 月城かなとの演じるラッチマンはものすごくやさしい。やさしくて、自分の感受性に正直で、台詞でも言っていたように「紳士で、人格者」にかなり近い。
 が、かなり近いけれど、そうではないのが悲劇の原因であり、同時にラッチマンの魅力である。

第八場 月のバルコニー

(略)
カマラ「取り引きは、私の命だと仰いましたね」
ラッチマン「そうです。辛そうですね」
カマラ「名誉のための殉教者、私はそう思って居ります。私は、貴方の卑しい要求に応じて、純潔を守るのです」
ラッチマン「しかし、私は貴方を苦しめたくはない」
カマラ「私はそれによって救われるのです。私の一族も……。さあ、卑しい事をなさい」
ラッチマン「私には、卑しいことなどはできません。卑しくないことをい
たしましょう。あなたに愛情をおくります……。(と、抱いてキスをする) 苦痛ですか」
カマラ「いいえ……、悪党……、詐欺師」
ラッチマン「腕力もまた楽しいものだと判るまで、何度でも、そう仰るがいい」
カマラ「悪魔……、泥棒……、ペテン師」
ラッチマン「(ふたたび、キスをする)来るんだ」
カマラ「私は、死刑にされる囚人なのですね」
ラッチマン「さあね……。さあ、おいでなさい」
と、手を取って連れて行く。
音楽。「月はひとつ」が聞こえてくる。
カマラ「放して下さい。」
ラッチマン「いいや。来るのですか、来ないのですか」
カマラ「私は取り引きを済まさなくてはなりません」
ラッチマン「それでは、おいでなさい」
カマラ「人でなし……、人非人……」
ラッチマン「それから……」
カマラ「悪漢……」
ラッチマン「それから……」
カマラ「悪魔……」
ラッチマン「そう、私は人非人で、悪魔で、そして紳士で、人格者です……」
カマラ「悪魔……」
ラッチマン「そうです……」
カマラ「悪魔……」
ラッチマン「そうです……。そうです......」
と、カマラは泣きながら、ラッチマンの腕に抱かれて去ってゆく。
(略)

(1997年星組『ダル・レークの恋』公演プログラム内脚本よりそのまま抜粋※2021年版では変更点されている場合あり) 

 物語のクライマックスもクライマックス、「来るんですか、来ないんですか」の場面。

 余談だが、ちらっと映像で見た1997年星組公演は、大劇場公演だったので、「来るんですか、来ないんですか」から「人でなし……、人非人……」「それから……」「悪漢……」「それから……」「悪魔……」……と言いながら、銀橋を渡ってふたりが袖にはけており、うわ、ここでこの台詞たちを言いながら銀橋を渡るのか……と大変ゾクゾクした。素晴らしい銀橋の使い方、台詞と芝居の魅せ方である。

 さて、余談は置いといて、「そう、私は人非人で、悪魔で、そして紳士で、人格者です……」という台詞は、ラッチマンの性質をこれ以上ないくらい的確に表している。

 前に投稿した記事、「何もかも完璧だった赤坂の夜/❜21月組『ダル・レークの恋』①」でも言ったように、ラッチマンという人間は、二つの正反対の人格の中で揺れている。この台詞の「人非人で、悪魔」の人格と「紳士で、人格者」の人格である。そして、それぞれ、前者はペペルが、後者はクリスナが担い、実存するキャラクターとしてラッチマンの前に登場する

 ラッチマンという人間は、はっきり言ってしまえばかなり生きづらい人である。
 マハラジアの息子、それも将来を嘱望されている長男で、父親との仲も悪くない(悪くないどころか、7年前のパリでの様子を見る限り、かなり本音で語り合えて心を許しているし、父親も彼の意志を尊重しているのが伝わる)。特に何も考えなくても、現状の立場を維持するだけで十分幸せな立場なのだ。
 なのに、彼は丁重に扱われるインドから飛び出し、パリで無頼漢の真似事をする。そこで出会うのがペペルである。月城ラッチマン×暁ペペルだから一層そう感じるのかもしれないが、このふたりは悪態を吐きあって命を賭けたサイコロゲームをしたりしているものの、相当仲がいい。ふたりにそう言って褒めたら間違いなく「冗談も休み休み言え」「始末するぞ」とすごまれるだろうが、どう見たって悪友とか腐れ縁のアレである。
 それだけ、ペペルの前でのラッチマンと、パリのナイトクラブでのラッチマンは生き生きとしているのだ。カマラやチャンドラ一族の前では常に敬語で話し慇懃無礼な態度を崩さないのに(ラジエンドラに扮しているときを除く)、パリでは「(笑う)此奴には弱いんだよな、親って奴は直にこの手を使うんでねえ、参っちまうよ」なんて軽い調子で、冗談を言ったり悪態を吐いたりする。

 このざっくばらんなあたたかい魅力を持つパリのラッチマンを、どうして彼はもっと早くにカマラに見せてあげなかったんだろう。それが悔やまれる。序盤の様子から、おそらくカマラと親密になった白樺の林(きゃあエッチマン!)でも「軍服の騎兵大尉ラッチマン」のままだったに違いない。

 この二面性に彼の生きづらさがある。月城ラッチマンは、ペペル=「人非人で、悪魔」にも、クリスナ=「紳士で、人格者」にもいまだなりきれない、不安定でナイーブで、それだけに多くの可能性を秘めた男なのだ。きっとラッチマンにとっての「思うところ」というのは、この「明確なキャラクターを持てない自分に対するもどかしさ」なのだと思う。

 多分、月城ラッチマンにとって、海乃カマラとの恋は、アイデンティティを確立するための「通過儀礼」だった
 二つの人格の間で揺れていた彼は——ペペル的人格に強く惹かれながらもクリスナ的人格にまだ色濃く支配されていた彼は、一度その人格を生みだした故郷インドに帰り、模範的な貴族の令嬢として生きるカマラ=クリスナ的人格の女=階級制度に捉われたままの自分の一部と人生最大の恋をし、傷つけ合い、別れることで、ようやく「過去」を捨て、真の自己を確立することができたのだ。

 それは、聡明でやさしく、封建的な階級社会に生きる人間にしてはあまりにも世界の解像度が高すぎる彼にとって、いつかは通らなくてはならない運命だったのである。

■海乃美月×カマラ

 さあそして、月城ラッチマンの人生最大の恋の相手は海乃美月のカマラをおいて他にない。
 前述した通り、カマラとの恋がラッチマンを新たな境地に連れていくのなら、カマラは月城ラッチマンの一部でなくてはいけないからだ。

 そして、海乃カマラは、「その身に纏った豪華な衣装も貴族らしい傲慢さも女として身を守る棘も、全て剥ぎ取って自分だけのただの女にしてしまいたい」という欲望を掻き立てる。
 『THE LAST PARTY』のゼルダも、『アンナ・カレーニナ』のアンナも、運命に翻弄されて狂っていく上流階級の女性役がよく似合っていた。
 絹の衣装や宝石に埋もれ豪奢な屋敷の中で傲慢に微笑んでいるのが相応しいけれど、どこか影や儚さ——欲望が入り込む隙があるのだ。
 この手の役をやらせて右に出る役者はタカラヅカ広しと言えども今はいないだろう。

 月城ラッチマンは、まさに上流階級の女であるカマラ=クリスナ的人格のラッチマンの一部を現状から引き摺り出し、まったく未知の新しい世界へとさらって行こうとしていた。ペペル的人格に染めようとしていたとも言える。それはもぎれもなく一種の欲望である。

 つまり、月城ラッチマンの欲望を掻き立てるのは海乃カマラしかおらず、逆にいえば海乃カマラの影に寄り添えるのは月城ラッチマンしかいないのだ。 

 月城かなとと海乃美月ほど、お互いがお互いの一部のような、麗しく狂おしい恋が似合う並びはない。



一夏の夢よ、どうか永遠に※追記  



おわりに

 冒頭でも言いましたが、ようやくこの物語にピリオドを打てそうです。

 というのも、タカラヅカにおいて芝居作品というのは劇中劇のような性質があって、それはどういうことかと言うと、まずタカラジェンヌたちの物語があってその上で彼女たちが物語を演じているので、舞台の役と芸名の役を重ねてしまう瞬間が多々あるのです。

 正直なことを言うと、私は、この『ダル・レークの恋』と完璧な公演を、「もうこの並びは、このカンパニーは二度と見れないかもしれない」という切実な気持ちで目に焼き付けていました。
 あまりにも完璧すぎて、完璧な瞬間というのは本当に儚いことを知っているので、一瞬の夢を見させてもらっているのだと気を引き締めずにはいられなかったからです。

 まさか、その夢が、さらに美しくさらにスケールが大きくなってまた続くとは。
 タカラヅカファンとして、今日ほど嬉しい日もないかもしれません。

 『ダル・レークの恋』を超える舞台に今度は大劇場で出会えるかもしれない。そう思うとほんとうに胸がときめきます。

 同じようにときめいている方に、どうかこの記事が届きますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?