でも、

   大して好きでもない人のことを擁護したくなって、心理テストでお話されたことを思い出した。再生回数が二桁の弾き語り動画に高評価を押した。胸に響いたから。熱くなるものがあった、から。画面越しには妄想の声が聞こえてきて、いつも言い訳ばかりしている。ほんとだったのにね。
   とても好きな子にカワカミさんはいいものをちゃんといいって言うよね(ニュアンス)って言われて、嬉しかった。そう見えているならいいか、しかもあの子が言ってくれるならいいかなと思うけれどそれは多分、自覚的で意図的な行動に過ぎない気がする。
   低評価だらけの謝罪動画になぜか、高評価を押したくなる。いいね!と思ったわけではなかったし、結局色を変えることはしなかったけれど、そうしなきゃいけない理由がある気がした。単純に絵が下手、結局何が伝えたいのかわからん、これは、気持ち悪すぎる、こんなんが賞取るなんて世も末、なんかオタクの同人誌で売れそうな感じw わたしは面白いと思ったけどな、他人の評価で軸がブレて、けどな、の後が大きくなって、なんか悲壮感の溢れた感情が爆発してしまう。
   えっ、ほんとにマジでなんでそんなこと言うの.....?!

   下に見えてる賛同者の数を数えて、顰めっ面でスクロールをして、違う人もいることを確認したら、考えごとの続きをするふりをして次に進む。わたしは面白いと思ったことを言った方がいい気がする。だけど、けどな、って思った時点で感情は変異していて、それは単純な娯楽への賛辞ではなくなっている。けどな、けどな、けどな! の後が言いたいくせに、面白いなんて言葉を使ってしまうのは汚い。作った時間や熱量と同じ分は返せない、どうやったって無理なんだから、せめて出来上がったものに対してくらいは、と思いたい。
   だけれど、そうやって全部に全力で向き合うなんて物理的に無理なことだし、軽く薄く踊って楽しい感じになりたい夜だってふつうにある。重さだけが測度の全てである筈はなくて、なんとなくいいな、というのだってこころの自然な動きだと思う。だから、、、なんだったっけ、それで私はこの漫画のことを本当に面白いと思ったんでしょうか?

   言葉をひとつだけ伝えることで、他の感情全部を道連れにするのが嫌だ。ちょうどいい温度と質感を、掻き出せるだけの言葉がない。どりょくがたりないからだよ! いいね、と思ったときに素直にいいね、だけを言えたら楽だろうね、それを実行できている君のことが羨ましくて嫌いです*。精密性格診断の結果は何度やっても同じになって、だから右にあるものと同じ量を左に置かなきゃいけないような気分がしてきて、あー、また、分かんなくなっちゃったね。好き嫌い好き嫌い好き、本当は最初から知っているのに。

   そんなに言わなくてもいいんじゃないかな、は僅かな社会性と理想の善性が繕い出した単なる建前で、口を塞ぐ道具としての言葉だったかもしれないことに、気付いていたからこういうときに思い出す。別にね、悪い子じゃないんだよぉ、って言ったきみが、いらなくなったら途端にその子を捨てたのと同じように。あのとき言いながらすこし笑ってたね。
   飲み込んだ分の言葉を、具象化されてなかったぐちゃぐちゃな所を全部かなぐり捨ててでも吐いている人を見るとあっ、と思ってしまう。綺麗だし、わたしにもいつかあったような、きらめいて見えて、それで、あなたのことが好きになって、また分からなくなって繰り返す。こうやって文字にして散らすことが感情を分散しているみたいで昔は嫌だったけれど、それが少しずつ解像度を上げることになったらいいなと思う。好きとか嫌いとか喚いても本質自体にひびが入ることはない、し、別にきえちゃう程度じゃないからもうすこし、素直に掻き出してみても消えない。だけど絶対一緒になりたくないからこういうときに出てくる罪悪感も、ちゃんと捨ててあげない。

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