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11月祭出展のお知らせ

 はじめまして、今年度から木曜会に所属しています、一回生の瀬見しぐれと申します。Noteの更新がほぼ三か月も空いてしまったのは偏に私の職務怠慢によるものです(すみません)。

 私が仕事を放置している間に、いよいよ11月祭(京都大学の文化祭、November Festivalを略してNFと呼ばれる)を迎えるわけですが、私たち木曜会も教室をお借りして企画を出展させていただきます。主な内容としましては

・会誌、古本の販売
・読書会
・体験創作(ノベライズ)

を予定しています(写真は販売する会誌『芥火』です)。そのほかにも、会員おすすめの本の紹介や、フリーペーパーの配布も行います。1共21演習室でお待ちしておりますので、ぜひお越しください!

お品書きです

 さて、NFでも販売する会誌『芥火』には会員の執筆した小説が載っているわけですが、木曜会では、執筆の際に「改稿」という作業があります。それぞれが書いたプロトタイプ段階の原稿を読みあって、コメントしあうのですが、当たり障りの無い、当たってもそのまま消えるシャボン玉のような言葉を交わして終わり、というわけではありません。先輩後輩関係なく、改善の余地がある部分を指摘し、良い部分は良いと伝えます。自分の文章に客観的なアドバイスをもらえるし、他の人の文章から技術を盗むこともできるので、まだ数回しか経験していませんが私はこの改稿作業が好きです。

 今回の改稿で私は、「直接的に書きすぎ」というアドバイスを多く頂き、改めて自分の文章を振り返ってみると、確かにそうだなと感じました。大学に入ってから小説を書き始めたので経験が浅いというのもありますが、「小説らしく書く意識」が足りなかったのがやっぱり一番の要因でしょう。「出来事を簡潔に書く→その結果の心情を書く」という国語の解答みたいな作り方をしていたら、「小説っぽくない」「どちらかと言うとレポートっぽい」と言われるもの当然です(自分が理系であるせいでそういう書き方をしてしまうのでしょうか、いやこれは言い訳ですね)。

 頭に浮かんだ物語を過不足なく文章で表現するだけなら小説にはならないし、ストーリーそのものの面白さだけじゃなくて、文章そのものの深みや面白さも不可欠なんだと気づかされました。同じく木曜会の会員であるTomboにおすすめされて読んだ、日比野コレコの『ビューティフルからビューティフルへ』も、やはり文章そのものの面白さなしでは成り立たない物語だと感じます(文藝賞の受賞者コメントまで小説と同じ独特の文体でつづられていました)。
 
 ここまでで書いたことは、小説において至極当たり前のことですが、「読む側」から「書く側」になって初めて実感を伴って理解できたことでもあります。書きなれていないからこそ、こういう当たり前を意識して書くべきだと思うし、そうして少しずつでもいい文章が書けるようになれればと思います。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。11月祭でお待ちしています!

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