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見過ごしていたもの

はじめまして、阿部です。今年になってまだ間もない、依然として雪が残っていた微妙な時期に入会しました。おかげで新入生なのか会員なのか曖昧な立ち回りが多く、気まずい場面に度々出くわし、「苦笑」という言葉の意味が身に染みてわかった半年でした。

さて、この文章は僕が木曜会のメンバーとして外部に向けて書く初めてのものですが、正直僕には荷が重すぎるように感じています。というのも文章というのは、もともと何か書くべきことがあって書くはずのものですが、生憎僕は自信を持って皆さまに提示できる何かを持ち合わせておりません。一方で、読んでいて面白い新聞のコラムはTwitterで呟くようなとりとめのないことを執筆者の手腕を以って興味深く書いているように思えます。なるほど、要は見せ方か。いやしかし納得できない自分がいるのも事実です。僕はたまに、「重要なことを書く事」と「見栄えのする事」があまり相関しないことにいささか不条理を感じてしまって、無気力になるということがあります。いやしかし皆さまにもこの気持ちはわかってもらえると思います。

ところが、世の中にはこの二つを両取りして書かれた偉大な作品が少なからずあります。このような小説に出会う度に、自分の体では受け止め切れないような大きな感動を覚え、それまでよりもさらに文学の中に吸い寄せられてしまいます。今回は、僕の持ち合わせからなんとか重要そうなことをひねり出して、なんとか皆さまに伝わるように書きたいと考えています。少しの間、お付き合いいただければ幸いです。

森鷗外、僕はこの作家の作品が非常に好きです。皆さまも教科書で出会ったことがあるかと思います。その中でも「舞姫」、かなり有名な作品ですが、僕はこれが一番好きです。

簡単なストーリーをおさらいすれば、若い官僚の主人公がドイツへ官費で留学に行きます。それから、現地で美しい踊り子の女性と出会い、互いに惹かれ合って恋をします。この踊り子は非常に貧しく、主人公はこれを救済しようと試み、しばらくの間同棲します。しかし、政府はこれを目ざとく見つけ糾弾し、この女性との生活を続けるなら奨学金を打ち切り免職にすると脅し、主人公はこれに対してひどく悩みます。そんな中、日本から来た旧友との、幾度の面会を通して、だんだんと決意が揺らいでいき、ふとした会話の中で女性との関係を絶つというような口約束をしてしまいます。その後、この旧友が例の女性と主人公の知らぬ間に会い、主人公が恋人との関係を絶つという決断をしたことを告げると、この女性はあまりの衝撃でパラノイアに陥ってしまいます。終いに、主人公はこの病気になってしまった女性に見切りをつけ、妊娠させてしまったのにもかかわらず、見捨てて帰国してしまう、という物語です。

当然の感想として、主人公(この物語は森鷗外自身の体験に基づいています)が極悪非道であまりに身勝手な人間だと思うでしょう。僕もはじめ読んだ時は、そう思いました。ところが、つい最近になってもう一度読み返してみると、この主人公に少し共感できるなぁとも思ってしまいます。

主人公は自分の意志で恋をして、この美しい女性をその気にさせて、日本での裕福な暮らしや高い地位を捨てて、二人で仲良く貧しくなっていくという選択をしました。しかし、この女性との暮らしは日に日に予想以上に貧しくなっていき、その日暮しの生活しかできないような未来以外見えなくなっていきます。ここで主人公の中に、日本へ帰ってしまおうかという気持ちが芽生え始めます。こんな生活になると思っていなかった、日本での生活が恋しいという気持ちです。そして、ここでこの女性を見切れば日本に帰って裕福な暮らしができるという状況に立たされます。これは、主人公が作り出した状況であり、誰にも責任を押しつけることができないのは当然です。しかし振り返ってみれば、僕も日常生活の中で何かに追い詰められた時、たとえ自分がその状況を招いたとしても、自分を苦しめてくる周囲の不吉なものに、僕 (私) はもう十分だ、だからもう追い詰めてくるのはやめてくれ、と吐き捨てて一切のものから解放されたい気持ちになることがあります。ここでこの重荷を捨てなければどうなるかといえば、ご想像できる通り、ストレスが募り、鬱病やその他精神疾患に陥ってしまいます。場合によっては自殺することになります。この時、周囲の人から逃げ出すことを阻止さえれてしまえば、そのシナリオは一層現実味が増すわけです。この小説は、ほんの一部においてですが、現代における鬱病や自殺の問題にも投影してみることができます。僕がはじめ読んだ時にしてしまった、この小説の主人公を非難するという行為は、道徳を守っているつもりで正義感を振りかざすと同時に、彼を追い詰める重荷を背負い続けろと言っているのと等しく、一人の人間を自殺に追い込んでいるということにもなります。人は確実な未来を見据えられるほど賢くありません。まして恋は盲目になる、というのはよく聞きます。そんな中、こういった状況は確率的にたくさん起こり得るでしょう。この、主人公を擁護すれば道徳心が廃れ、主人公を非難すれば一人の人間を自殺に追い込んでしまう、というジレンマは法治の国家の日本ではおおよそ見過ごされがちです。学校教育に組み込まれている「道徳」もわかりやすい状況を想定して、健全であればクラス皆の意見が一致するものがほとんどです。この小説で描かれているのは、健全であっても、むしろ健全であればこそ人を傷つけてしまうような状況です。これだけ科学が進歩して、医療が発達して、パソコンやインターネットも発明されて、宇宙の諸現象や素粒子の挙動などの理解も進んでいるのにもかかわらず、目の前にある、つかみようのない人間間の問題というのは依然として未解決のままです。この問題の正解はありませんから、解決できないのは当然でしょう。おそらくこれからもこの問題の根本的な解決というのは望めないでしょう。こんな状態ですから、日々の中で間違った行為をしてしまうのは当然でしょう。逆に、無神経な相手に傷つけられることも多々あります。都会の喧噪の中で身が踊らされていれば、人の事情や心の機微に逐一神経を尖らせていることなど不可能です。そんな社会の濁流の中で生きていると、つい人のことを気軽に揶揄したり中傷したり、次から次へと来る情報を浅薄な考えで処理してじっくり考えるということを疎かにしたりしてしまいがちです。ここで反旗を持って、「舞姫」のような小説を手に取って立ち止まってみた人は、身近の些細な出来事に出会ったときに、ほんの少しだけ、一見そう見える被害者だけでなく、目立たない加害者の悲痛な声にも耳を澄ませて、両方に対して優しくなれるのではないでしょうか。同じ状況に立たされてしまったとき自分はどう振舞うだろうかと考えても、一考では意外と理想主義的なことを想定してしまいがちです。そんなとき、もう少し時間をかけてじっくり考えてみることで、重要な発見をすることがあります。

こうして本を読んで少し考えてみると、それまで全く考えていなかったことを考えられるようになっている自分に気づかされます。しかし同時に、この現象は非常に恐ろしく感じます。つまり、この現象は、僕が何かに出くわした時にそれを見て考えられることが非常に限られているということを証明しています。物事には必ず二つ以上の見方があります。僕が開拓した見方というのはごく小さなもので、まだ知らない何かが僕の知らないところで広大に広がっています。そんな恐怖を抱えてシリアスな場で意見を言う時、ふとこんな事を思ってしまいます。この僕の身勝手な発言は本当に正解なのだろうか。自信を持って公言できるものなのだろうか。僕の見えないところで誰かが傷ついていたり、不快になったりしているのではないだろうか。この感情は小説を読むことで生まれています。おそらく小説を読まなければ、こういった不安に苛まれずに済むでしょう。本を読み、考えるという行為は、藪の中を分け入っていくような先行きの見えない行為ですが、それでも新しい景色を見ないまま生きるよりはずっと良い心を持って生きられるのではないでしょうか。

ここまで読んでくださってありがとうございます、それでは以後よろしくお願いします。

(阿部)


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