期待と応援
私は人に期待しない。ようにしている。
薄情だろう。卑怯だろう。冷淡だろう。
そう思われて仕方ないんだけど、応援はする。
自分が期待されたくないからかなあ。
期待されると応えないといけない、期待を裏切ってはいけないと、気張らずにはいられない。
上手くいかなかった時のことが脳裏をよぎる。
期待を重荷に感じてしまう。
私が思うに、期待は “した人” に、 “された人” がどれだけ恩恵を与えられるのか(重荷100とする)。
一方で、応援は “した人” に、“された人” が好きしているところを見守っていてもらえるか(重荷-100)。
それぞれ焦点はそこだと思う。
相手に求められた恩恵を与えてこそだ、と思える人。
期待に応えることが好きな人。
きっと、いる。
期待を原動力に変えられる人だって。
期待に応え続けられる人だっているかもしれない。
私はどうも、そういうのに向いていない。
誰かの期待に沿えたときは間違いなく嬉しいんだけどね。
厳しくされるのは、期待されているからだ、と言われる立場にいたことがあるが、だったら期待するなと思った。
どうして応援してくれないんだ。どうして私の好きを差し置いて、あなたの理想の体現を目指さなくてはいけないんだ。
期待なんかしてくれるな。何度も思った。
きっと、厳しさは、応援に違いなかったんだろう。
厳しくした人からすれば。
私のためだったんだろう。
だからこそ、誰かに向けた応援が、された人にとって、期待や重荷になってしまっていないか注意を払いたいと思う。
背中を押したつもりが、その人を崖っぷちに突き飛ばしてはいないか。
隣で、時には一緒にうずくまって、前を向けるまで、君は大丈夫だと声をかけることができているのか。
アスリートの多くは、プレッシャーを楽しめる。
期待を、自分の中で応援に変換できるんだろう。
そういう力も大切。
「私が感じている期待は、私に向けられた応援なんだ」と思うよう心がける。
だけれど、様々な分野で、様々な局面で、様々な人間関係の中で、それを常に可能にする人は、ほとんどいないと思う。
私も、その例に漏れない。
そう思うと、私は人に期待したくない。
人に期待しない。
人を信用しない薄情な、冷淡な人なのかも。
でも、応援している。
責任をもって「頑張れ」とは言えないけれど。
無責任に「頑張れ」とも言わない。
誰かが、無事に、好きなようにやり切れることを見守る。
私は、誰かに応援されていると思いたいし、誰かを応援していたいと思う。
私は、フォローする相手に、スキと言う相手に、コメントをする相手に、期待はしていない。
この言葉で、嫌な思いや、がっかりを感じさせてしまっていたら、ごめんなさい。
でも、ちゃんと応援している。
画面の向こうだから、人間だから、目に見えないと思うけど。
“心から” 応援している。
逆も然り。
きっと応援されているんだと思う。
ありがとう。
期待してくれている人、ごめんなさい。
冷たくて、身勝手だけど、私は期待よりも応援がいいんだ。
以上、期待しない応援団長、兼、応援されたい会会長に立候補中、自称 無責任ヒーローでした。