おしゃべりの魔法
私は、しゃべれるような気がするものが、人間以外に2つある。
1つは植物。もう1つは、捨てられなかったぬいぐるみたち。
植物に関しては、自分でも不思議なんだけれど、昔からずっとしゃべれるような気がしていたのではない。
きっかけになる出来事があって、それを境に、その感覚から抜けられなくなった。
今年の2月、1人で平安神宮の庭園を訪ねて、植物に囲まれて過ごした。
すると、庭園を見事に形作る植物たちが話しかけてくるような気がしたんだ。ちょっと戸惑ったけど、いろんな声が聞こえる気がして、だんだんその声に耳を澄ますのが楽しくなった。
しゃべると表現したものの、正しくは植物が何かを言葉を発する訳じゃない。
たまたま同じ電車に乗り合わせた、目が合うことも、会話を交わすこともない人のような感じだ。
お互いに存在には気付いている。
その人が何かを考えたり、感じたりして生きているんだろうなあ、くらいは思いを馳せることができる。
けれど、まるで違う空間、違う時間軸に存在しているような。
私は今、植物にそんな気持ちを抱いている。
変なの。
ぬいぐるみたちに関しては、昔からしゃべれたのか、最近になってしゃべるようになったのか、はっきりしない。
思い出の品を思い切って捨てているときに、出てきたぬいぐるみたち。
お気に入りだったというか、ひどく執着していた時期のあるぬいぐるみばかり。
目を見つめると、訴えかけてくる。
植物と同じで、はっきり聞き取れるような声ではないけれど、私に確かに何かを伝えてくるし、私から何かを感じ取っているんじゃないかと思わせてくる。
大概の物は、捨てられたんだけれど、しゃべられるぬいぐるみは捨てられない。
ぬいぐるみを集めるのも、ぬいぐるみ遊びも好きでなかったし、寂しいときに話しかけたりした覚えもないんだけれどなあ。
しゃべられるのが当たり前だったから思い出せないだけなのかなあ。
今になって、しゃべれちゃうから、恥ずかしいような、不思議なような、おかしくなってしまったような。
分からない。
これだけ、言葉を口にして、文章にして、記憶に留(とど)めて、気持ちを代弁してもらって、言葉に頼り切っている日々の中で、言葉がいらない場面に遭遇しまうんだから、訳が分からない。
でも、相手が植物でも、ぬいぐるみでも、犬でも、人でも、言葉が必要なくなる瞬間がきっとある。
人間同士なら、なおさら、限られた時間で、限られた空間で、限られた関係でしかあり得ないのかなと思う。
理解はできないけど、ある人に大きな意味を、安らぎを、大きな愛を与えられるのは、言葉じゃない何かなのかもしれない。
そんな感覚を忘れずに、言葉を使いたし、使いたくない。
言葉は人を救うし、どん底に突き落とすから。
上手いこと話を逸らしましたが、私はどうして植物とぬいぐるみたちと、おしゃべりを楽しめるんでしょうね。
その理由を言葉にしたら、おしゃべりできる魔法が解けちゃうということにしておきましょうか。
そうしましょう。
(青木詠一さんの、「必ずしも言葉はいらないことに。」から、この文章を書くきっかけをいただきました。ありがとう。)