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リセットボタンを押してみる

自分の中の設定をリセットするきっかけになればと思って書いてみる。

私は、文章を読むとき、書いた人がどんな人なのか、知らず知らずのうちに想像している。

男性だと明記されていれば、頭の中では、低い声で文章を読んでいる。
柔らかい表現を読んでいると、書いた人の優しい顔が浮かんでくる。
鋭く、簡潔な、締まった文章を読むと、書いた人の真剣な眼差しを感じる。

全部想像だ。

そこに文章がある以上、書き手の存在を感じずにはいられない。
書き手像を自分の中でとりあえず設定する。
そうやって、文章に入り込んでいける。

その最中に、たまに引っかかることがある。
男性か?女性か?
というところである。

ここがはっきりしていると、作者像を立てやすいのだ。

ここで、質問。
あなたは、ここまで読んで、私を男性と思っただろうか。
女性と思っただろうか。
それとも、判断しかねていただろうか。
どちらでも良かっただろうか。

どの答え、それ以外の答えを持っていても、この文章は読める。
この文章と言わずとも、文章は読める。

それと同様に、文章ではなく、そこに人がいて、男性か、女性か分かっても、分からなくても、人として接することができる。

文章を読むとき、人と出会うとき、男性か女性かなんていうのは、自分の中の設定であって、想像であって、実際、その人と触れ合う上では、必要のないものなんだろう。
むしろ、そんな一方的な設定や想像は、その人と触れ合う際に壁になってしまうのではないか。

私の中の設定や想像を、その人に押し付けるのは、その人の歩んできた道や、大切にしている考えや、心の中に常にある当たり前を、真っ向から否定することに、なりかねない。

テニスの大坂なおみ選手が素晴らしい活躍を見せている。
そこで、彼女が日本人なのかという声を聞くことがある。

彼女を、誰かが設定し想像するときに、日本人というところで引っかかったんだろう。
さて、そんな設定が、彼女を見るのに、本当に必要だろうか。
その設定を押し付けることは、彼女や他の誰かを否定したり、傷つけたりすることには、ならないだろうか。
その可能性を差し置いてでも、設定する必要があるのか。

有名な人、話題になった人に、設定・想像を膨らませていく癖があるようだ。
悪気があるわけでなく、ただの好奇心や興味から始まることが多いのかもしれない。
その人のことをもっと知りたいという、人が生来もってきた感情から始まるのかもしれない。

だからといって、悪意のない好奇心や興味によって、人を苦しめたり、窮屈に感じて生きていくことを定めたりすることなど、到底、許されてはいけないと思う。

街中で見かけ、すれ違うたくさんの人たち。
仕事で知り合う人。
友だちと呼ぶ人。
テレビや、スマホのニュースから流れる時の人。
noteに存在する様々な形の表現者。

私はたくさんの人を、設定し、想像するんだと思う。
だけど、一度、立ち止まって考えよう。
その設定は、誰のために作ったのか。
その設定をリセットできれば、その人を真っ新(まっさら)なところから見つめることができないか。

私は、このnoteでは匿名。性別も不明。

あなたが設定した私なんて、きっと不確かでどうでもいいことなんじゃないのかな。

このnoteをきっかけに、たくさんの人に対する自分の中の設定を考え直してもらえたら嬉しいと思う。

リセットボタンは、すぐに押せるものじゃないと思う。
だけど、誰もがもってて、いつでもその気になれば押すことができるんだと思う。

リセットしてからの冒険には、消えたデータを忘れさせる、新しく気持ちのいい出会いが待っている、と思っている。



#雑記