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寝たふりの極意

小さい頃、よくした。寝たふり。

よくしたってだけあって、魅力を感じていたと思う。

今の私が、その魅力に迫る。

魅力は大きく2つに分けられるだろう。
1つは、はらはらドキドキ感。
もう1つは、聞けるかもしれない、誰かの本音のような言葉。

はらはらドキドキ感。それは、かくれんぼで、隠れているすぐそこを、鬼が通り過ぎていくときの感じによく似ている。

そして、私が寝ている、と思っている誰かは、私がいないが如く、私について本音を漏らすかもしれない。
本音が聞きたいというよりは、私を安心させてくれるような本音を期待していたんだと思う。

私が小さい頃に聞いた、誰かの本音のようなものは、私の記憶の範囲内では、大したものではなかった。

それでも、「もう寝ちゃったんやね」とか、「今日は疲れたんやなあ」とか、そんな本音のような言葉に安心感を覚えていたのかもしれない。

私のいないところでも、私のことを見ていてくれて、悪く言わないでいてくれることを確かめたかったんだろう。

寝たふりのまま眠りにつくこともあったけれど、内心、ばれないだろうかとエキサイトしているので、大体の場合、目が覚めるふりをした。
ここで、寝たふりだったことを判明されてしまうと、そこまでの頑張りが水の泡なので、目が覚めたふりの後は、寝たふりの間の出来事を知らないふり。

寝たふりからの、目覚めたふりからの、知らないふり。
“ふり”は終わらない。
そうすると、私だけが秘密を、真実を知っているんだという、気持ちのままでいられるんだ。

それに、私が寝たふりをするというレッテルを貼られることはなく、これからも寝たふりを遂行することができる。


こんなふうに、寝たふりの記憶を辿(たど)っていると、今も似たようなことをしているなあと、現在に行き着いた。

自分は「こうしたいなあ」ってのがあっても、それを伝えずに、とりあえず相手に「どう思いますか」「どうしたいですか」と尋ねる。

自分の意思に、寝たふりをさせる。
寝たふりのまま、相手の本音を聞き出そうとする。

自分が優柔不断っていうのも、一つの要因だと思うんだけどね。
相手の本音を聞いてみたくて、安心したくて、寝たふりをするんだと思う。

一度、寝たふりを始めてしまうと、“ふり”を続けなくちゃいけなくなってしまう。
相手の返答が自分の意向に沿わなくても寝たふりをした以上、“ふり”を続けなくちゃいけないと思ってしまう。

でも、昔とはここが違うと思う。
昔、寝たふりをしていた私は、期待していたような本音が聞けなかったら、自分からそれを聞く状況を作ったにも関わらず、その本音を発した相手を恨んだと思う。
今、寝たふりをしている私は、自分の意向に沿わない本音も、受け入れることができる。

とは言っても、昔と同じように寝たふりをして、自分から本音を聞き得るシチュエーションを作っておいて、本音を聞いて、がっかりすることも、残念ながらある。

寝たふりするなら、何を言われても平気でいられる程度の、回数の“ふり”にしておくべきだろう。

でも、たまにする寝たふりは、自分だけが知っている特別な世界を見させてくれるかもしれない。

「あれ、どう思う…?」
「すっごい、いいよね!」
「やっぱり!!そう言うと思ったんだ!!」
みたいな安心感。


自分の意思を隠しておくのは卑怯だと思うけれど、
相手の本音に期待しすぎるのも、良くないと思うけれど、
仮に期待通りでなくとも、受け入れる余裕が欲しいと思うけれど、
そういう細かいことを気にせずに、寝たふりして、得ることができた安心感や、特別感は、いつになく心地いいのかもしれないね。

寝たふりの極意。

ってのは、言いすぎたね。




#雑記