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“いい子”じゃなくて大丈夫
中学生のとき。
私は“いい子”だった。
今、大人と言われる歳になった。
昔の自分に、何か言えるなら
“いい子”でいなくて大丈夫、大丈夫。
と言うだろう。
ついでに抱きしめてあげたい。
そうは、もうできないから、今、生きているあなたたちに、伝えたい。
中学生のとき。
(以下、長いので読むのが苦手な人は、1番下までスクロールして太字だけでも読んでくれると嬉しいです。)
不登校気味で、保健室登校をしている同級生が2人。
私は、その子たちと保健室で給食を食べるようになっていた。
直接的な理由は思い出せない。
先生に頼まれたのか、勧められたのか、自分で行きたいと言ったのか。
理由はともあれ、保健室で、その子たちと給食を食べる時間は、教室でいるよりもずっと居心地が良かった。
教室は嫌いだったし。
その子たちを下に見て、優越感に浸りたいのでは決してなかった。
むしろ、尊敬を含んだ憧れのようなものを抱いていたと思う。
自信がなくて、暗い自分。
ふつうに愛情を持って育ててくれている親に対しても、「私なんて本当はどうでもいいんだ」と思ってしまうくらい自信がない。
それを誤魔化すのに必死だった。
勉強も、部活も、生活面も、真面目で優秀。
先生や親からは褒められる立場にいた。
とっても、“いい子”だった。
どれだけ頑張っても、良い成績を修めても、褒められても自信はつかなかったけど。
自信がないから、逆に必死で“いい子”でい続けた自分。
それに対して、保健室の2人は、嫌なことを嫌と表現できていた。
それが羨ましかったのかな。
2人とも、教室が嫌だから、教室に行かない。
1人は、学校で何度か、幼稚園児のように泣きわめいていた。
気分の乗らない時は、誰とも口を利かなかった。
気づけば転校していた。
もう1人は、普段は明るく、よく喋る子だったが、しっかり痕の残るようなリストカットをしていた。
校則から、とことん外れた制服の着方をしていた。
大人の言うこと、“いい子”でいることを確証もなく信じ込み、泥沼にハマっていた私には、その子たちの逃げる姿に光を感じていたのかもしれない。
そして、教室にいたくない、誰からも愛されないんだ、という気持ちを共有できる相手として好感をもっていたのだろう。
この子たちなら、私の気持ちを分かってくれるんじゃないかという期待も少なからずあったのかも。
自分を誤魔化し、押し殺して、必死になっていた私は、教室で生きた心地がしていなかった。
保健室の2人は、“いい子”ではなかった。
私は“いい子”でいることに全力を尽くした。
学校に行きたくないと言えなかった“いい子”。
意味もない校則を、どうして守らないといけないんだ、と言えなかった“いい子”。
部活が苦痛でたまらない、と誰にも言えなかった“いい子”。
親に、愛していると言って抱きしめて、と言えなかった“いい子”。
“いい子”でいることが正義なんだと思い込み、たくさんのものを失った。
どこまでも自分だけを責め、他に責任があることに気づかないふりをして楽をして、辛い思いを自ら選んだ。
“いい子”でいようとしている人がいるなら、“いい子”でなくて大丈夫だと言いたい。
“いい子”じゃなくなって失うものなんて、そもそもいらなかったものだと証言したい。
“いい子”でいられないことに、劣等感や罪悪感をもっている人がいるなら、“いい子”にならなくていいんだと言いたい。
“いい子”じゃないから、失わずにいられる大切なものを、あなたはたくさん持っていると断言したい。
ここまで聞いてくれてありがとう。
あなたは“いい子”でなくて大丈夫。
もう1つ、お願いを書いた手紙がある。
“いい子”でなくなって、わがままを言えた私が書いた。
私も、あなたも“いい子”じゃなくて大丈夫。
きっと大丈夫。