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わからなくても楽しいもの、わからないし楽しくないもの

古今東西あまねく楽しむ美術館。

ごきげんよう、もくれんです。

美術館に行くときは、わかるとかわからないとかで考えるとつまらなくなるのでなるべく考えないようにしている。ムスカみたいに「わかる、わかるぞぅっっ」ってなる楽しみ方もあるよ、そりゃ。寓意とか聖書の知識とかね、あればそれだけ読み解けるものもある。でもそういうもんばかりでもないし、多分描いてる方も意味こめてる時もあれば、ない時もあるはず。「何が主題なんだ」と思ってめちゃくちゃ近寄ってタイトル見たら「無題」とか往々にしてあるのでね。くそっ!!!!無題かい!!!

私にとってわからなくても楽しめるのは現代アートだ。そもそもわかろうとするのがナンセンスなものが多い、と思う。これの何が美しさや醜さなのか、とか考えても草間彌生の水玉は水玉でしかないし、名和康平の鹿は名和康平の鹿でしかない、私にとって。なので、好きだな〜とか嫌いだな〜とかわけわかんなーいとか平易な言葉の感想しか思いつかない。わけのわからんものは「私にはない感性で世の中を見ている人がいるらしい、以上。」と思って鑑賞する。私にはない感性を知って、自分を知る作業かもしれない。水琴窟じゃないけど、作品を鏡にして自分の心のどこがどう動くかで自己理解を深める、みたいな。見るのはやっぱり受動的なようでいて能動的な作業だと思う。そういえば森美術館は、途中で都内の眺望が見える展示室があるけど、あれは眺めているであって、見てはない気がする。見て呼応して何かを感じるというのではなく「夜景だなー東京だわー」くらいの感じ取り方。アートを見るのとちょっと違う気がする。

そんな私が、見ても全くわからないものは書と刀と茶器である。多分鑑賞方法を知らないと楽しくなれないのだよな。何がすごいのか全然わかんないし、違いもよくわからない。一応見はするけど、見てるだけ。わかんない!!!わからないよー!!!現代アートも何したいんだか全くわからんのだが「世の中いろんな人が生きてる」くらいの情報量は取れるからぼちぼち楽しいのだが、過去の書と刀と茶器は、なにがグレイトで何がイマイチなのか知ってないと楽しめないなぁと思う。そんなわけで見ても楽しくない。なんでなんだろうな、龍安寺の枯山水も全くわからないのに楽しめるというのに。

わかると楽しいはこうして考えると必要条件じゃないんだなー。わかるから楽しいでもないし、わからないから楽しいでもないし。

ところで、私は時々アートを見てゾクゾクすることがある。リアルに肌が粟立つ。あと中世絵画を見ると寒くなる。寒くて怖い気持ちになるから苦手である。別に怖い絵じゃないのにすごく寒くなる。中世絵画を保管している室温の話かと思ったけどそういうわけでもなさそう。

こういうわけのわからないカラダの反応を見ると前世ってあるのかなーと思ったりする。中世絵画ぞわぞわするの全く思い当たる節がないもんな、今世。そのくせ中世のモザイク画は好きである。わけがわからない。

わからなくても楽しいもの、わからないし楽しめないもの。その答え合わせは天国で神様に聞くしかなさそうだ。

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