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美は微力なれど。

美の力で人々を圧倒してきた歴史がそこここに転がっている。

ごきげんよう、もくれんです。

美しさは本能的に魅かれるものなんだろう。赤子ですら美人に微笑む。私は美術館が大好きだけど、やっぱり美しいものを摂取しに行ってる感覚だ。好みかどうかはおいておいて、美しいものを見て無になることがひとつの幸せだから。そんなことを感じつつ、三菱一号館の芳幾と芳年を見てきた。その中に徳川綱吉を描いた作品があり、豪華絢爛な浮世絵の艶やかさを心に映して帰ってきた。今年開催していた、智積院展では綱吉が描いた絵が展示されておりどうやら今年は綱吉に縁がある。当時は将軍も手習いで絵を描いたそうだ。

ところで、史実に詳しくない私だが、綱吉に幸福なイメージがない。よしながふみの大奥の影響が多分にあるんだろうと思う。実際、本人が幸せだったかは分かるはずもないが、美しく描かられ、美しいものを描く力があり、美しいものに囲まれて生きていても、人は幸せにはなれないんだなと思った。宗教も時の権力者も美の力で人々を圧倒し導いてきたわけだが、美は所詮、美でしかなく、心酔させても幸福にはしないのだと思う。一輪の花に慰めがあるのに、ただ落下する滝壺の水に清廉さが宿っているのに、幸せにすることはできない。そういえば私の知る限り多神教においても幸せの神様というのはいない気がする。愛の神や太陽の神はいるけど、幸せの神様はいない。愛と同じくらい幸せも多義的だと思うが、幸せについては神様がいない。パリスの審判でもパリスに幸せを与えられる女神はいなかった。幸せは神様にとっても制御不能なものだと人間は知っているから幸せの神様がいないんだろうな。

そう考えると神様が司るものは基本的に気まぐれで人間に制御できないが、幸せだけが人間がなんとかできるものなんだ、たぶん。神様はやっぱり人間にとってインフルエンサーでありたいので「幸せは人間次第ですよ」なんて絶対言わないし、とにかく神様の力は強いので人間も振り回されまくってるのだが、どうあれこうあれ本質的には幸せの定義も解釈も勝ち取るのは自分自身。

美は微力なれどと思考を巡らせたら青い鳥のように幸せが私に寄り添っていた。誰でも知ってて新興宗教や安い自己啓発で書かれてそうなオチだけど、実践するのは難しく不幸な気持ちになった時には脳内をかき混ぜて沈澱した真理を掬い上げることも時に必要なんだよな。

もくもくれんれん。

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