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24/1/23(火) 光る君へ_第3話

光る君とは誰なのか?

今回は、家族内、御所内、市井の人々、
人物それぞれの日常であったり、
人間模様や心情や、
営みが多く描かれていたように思う。
きらびやかな着物も素敵だったし、
女学生のようにキャピキャピ笑い合う
貴族の女性たちも良かったし、
寄せられた恋文と女性を品定めする
やんちゃな男子たちも良かったし、
出世するために暗躍する、
右大臣たちのどろどろした感じも良かった。
立場や環境によって描かれ方は
様々ではあったが、
生き生きとした平安の人々の姿があった。

そこで思ったのは、
光る君、とはこの物語に出てくる全ての
人々に対して当てはまることなのでは
ということである。
源氏物語の光源氏のことでもあるし、
今後栄華を極める道長に向けられたものでもあるし、
世界最古の長編小説を書いた、
紫式部自身のことでもあるだろう。
それだけでなく登場人物たちの生き様を
綺麗だろうと汚かろうと、
光ると表現しているのではないか。
そして、なんとなくではあるのだが、
視聴者である僕らに対して
向けられているのかもとも思った。
平安時代の人々が必死で生きる姿を
現代を必死で生きる僕たちの姿として
描こうとしてるのではと思った。

何でそんな事思ったんだろうって
自分で考えてみた結果、
新井英樹先生の
「宮本から君へ」
が自分の頭の中にあるからだと気づいた。
すごい漫画だった。
どれくらいすごい漫画かというと、
読了後1週間くらいは影響を受けすぎて、
理不尽な大人たちに殴りかかって
ケンカを売ろうかと思ってたくらい。
してないけど。
全然間違った解釈だけど。

だからなのか
「君(きみ)」って
単語と響きががなぜかすごく好きだ。
君の名は、君が好き、君だけ、
君と、君を、君なら、君へ、君から、
君に読む物語
君じゃないとさ
君はそんなやつなんだな
どんな文脈や詩に使われていても、
幸せな物語や歌であっても
なぜかすごく切ないイメージがある。
おそらく距離を感じるからなんだと思う。
呼ぶときも呼ばれるときも、
「君」って言われたら、
近い関係性ではなかったり、
遠い存在だったり、
物理的にもその場にいなかったり。
なんとなくだが、
自己完結で語るときの二人称である気もするし、
さらにそこに敬愛とか憧れとかが
含まれる気もするし、
そして、切なさ、悲しさ、虚しさ、報われなさ
を感じる。

だから、「光る君へ」も
生命を輝かせて生きる人々、
生きていたであろう人々、
に敬意を表したタイトルなんじゃないかと、
生きてるだけでみんな光り輝いてるんだと。
そして悲しみと暗闇の中で、
一人でも光を放つ姿も美しい
ってことなのかもなと
そんなことを思った。

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