恒星ノート(6)-1 寝起きで浮かんだかなり厳しい内容。

まずは、結論から。
原理原則の話題。

何者かになるのならば、
闇は永遠に休息する場所になることはない。
何をしようと休む場所を見つけることはない。

余談だが、
あなた自身が、欲するものの側に立ち、
体現する必要があるが、これは現実に行う必要はない。
思い立った瞬間に出来ることだ。
何かを追い求めるたり、
欲したりするとき、目標との僅な隔たりができてしまうからだ。

私は子供の頃何故か懐かしいものが好きだった。子供には昔が存在しないが、この存在しない昔という概念が好きだった。
今思うと恒星的な領域に近接していて、プレアデスあたりかどこかを意識していた。
今であれば、これを利用して当時探していた恒星を見つけることができかもしれない。
アンティーク云々程分野を限定できるほど明確ではなく、昔の香りのするもの、探し出せるもの、にわくわくしていた。
これは、成り切れば良かったのかもしれない。同時にこれがもたらした弊害も分かるかもしれない。
起き抜けに、並行してこんなことを考えていた。

よく事件になる宗教者の犯罪が何故起きるのか。彼らの求める「宗教上、聖的なものの背後」に、寓意的には疲弊しきった闇そのもののイメージがあった。哀れにも程があると思った。
余談だが天上的な分野の探求は逆に極めて現世的な「腰」の領域に働きかけることにもなる。腰と闇は現世的なラベルと概念の違いだが、区別しない限り同一化の弊害は起き続ける。
求めることと同時に原理的に(あるいは、象徴的に)逆のことをしないから不均衡が起きるが、これを認識できないほど本質に理解が無い。

脇にそれるが、一足飛びに結論に至るか、蛇行して迷い続けるかのいずれかしかないと思った。
上の話は求める、なりきるの構造自体の話だ。

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