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7:19に耳を澄ませて


ーねえ、聞いて。わたしったら、今にも泣き出しそうだよ。

しんしんと降り積もったそれを、指紋という名の葉脈は振り払うこともせず飲み込むこともせず、溢れ落ちるのを必死に食い止める。行き場を失った人差し指を宥めるように、久しぶりに机に向かった。


「お誕生日、おめでとう。」

それは、恋文だった。誰がなんと言おうと、わたしに宛てられたそれはそれは美しい言の葉の羅列だった。

「あと、7時間後だね。」

そう、彼女は冒頭から含んだ物言いをしたが、わたしは含まれたそれの意味をよく知っていたものだから、当然のように、それでいて少し気恥ずかしい面持ちで彼女と共に行き先を見据える。



〈7:19〉

あと数時間もすれば、皆平等に訪れ、刻まれる。記号として捉えればなんら特別な並びでもないが、25年前のその時、母は淡く刺青を、世界は力強く刺繍をわたしに施した。

望まれた子どもであるということは、ちっぽけで偉大な年表をなぞらずともわたしがいちばんに知っていたが、その日、わたしが彼女のいのちの麓に腰を降ろしたこと、彼女と世界の境目を産声で溶かしてみようと試みたこと。それらを自らの意思で選び取ったという誰も知り得ない不確かな事実を、今宵確かに握りしめている。

『生きていて、あんなにほっとしたことはないよ。』
そう母が綻ぶ度に、ゆったりと引かれた目尻の皺と目が合う。年々深く刻まれるそれに25年前濁り無い露が伝ったことを思うと、父譲りの笑窪で受け止めたくもなった。



歳を重ねるという行為は、中々に面白いものね。

“重ねる”というと、昨日のわたしより今日のわたしがほんの少し分厚くもなりそうだけれど、そんな気もしない。それは思うに、ひとは皆同時に“濾す(こす)”ことをしているからだと、透明色の声をした少女に教えてもらってね。

そうそう、当時のわたしは知り得ないことだろうけれど、いつからか音に触れると色が滲む様になっていて。ある時はかたちや質感までありありと目に浮かび、またある時は、音が降ると同時にことばも降り出した。やがて足元に出来た水溜りがうみになって、水面に映る何者かに恋をしたりもした。


透明色をしたその声は、透明という“色”を持っていて、確かにそれは澄んでいて、手をかざしてみれば瞳はそのままに姿形を映すのだけれど。

言うなれば、何も知らない純真無垢なそれとは似ても似つかず、知らないことを知っているだけの聡明なそれだった。何ひとつ棄てることをせず、時間と手間とこころをかけて自身に仕舞ってきた色だった。

彼女はきっと、見たもの、聴いたもの、触れたもの。そこから芽生えたもの。誰に教わる訳でもなく、ひとつひとつ、濾すという行為をしてきたのだと、妙に納得をした覚えがある。



歳を重ねるということは、きっと何かを忘れていくということだろうと寂しく思う。それがいのちに身を委ねる代償であることを思っても、やはりほんのり寂しく思う。

ただ、それに付き纏うのは必ずしも鈍さではないことを、しなやかにしたたかに提唱してみたい。

一人ぼっちで抗うことも、祈ることを一人ぼっちにすることもしない。母を許した世界がわたしを許す限り、ひとり静かに産声を上げ続けてみることをここに誓うとするよ。



気付けば人差し指は愉快に踊っていて、溢れる筈の露は星となって行方を眩ましている。

気付けば24歳のわたしが苦手だったタイピングは、好きなあの子を想うと駆け出すこころに追いつく程には得意になったし、気付けば24歳のわたしに痛みを生んだことばたちは、好きなあの子を癒すために駆け出してくれる程には味方になった。

泣き虫は相変わらずだけれど、愛変わらず鎮座したそれに幾分ほっとする。



そして、恋文はこう締め括られている。
「幸せな一年であれますように。あわよくばその想い出の端にわたしも居ますように。」

ー大丈夫。そもそも何度も折り重ねるわたしの人生に、端は生まれない。何度も何度もあなたへの愛らしきものを濾して、それをわたしの幸せだと名付けてみせるからね。





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