石に浮かぶ世界

家族が寝静まった夜の作業場にひとり。

雨音を聴きながら仕事をしていると、世界が5ミリほど地滑りを起こしたような感覚に陥ることがある。

上を向く。集中しすぎた。
ついさっきまでいた世界と、顔を上げた今が僅かにダブりながら、別々の世界を進む。

絵を描いた上に、方解石を置いたときみたいだ。
下にある絵と石に浮かぶ絵、一つしかないはずのものが一部だけ離脱したような、不思議な世界。

今の私は本当に、先ほどまでの私と同じ世界にいるのだろうか。


全人類によるマスク争奪戦が勃発するより前の話。
連絡を受け、急遽友人に会うこととなった。
まだ小さい息子を夫に任せ、新大阪へ向かう。

息子を産んでから初の新幹線。1人で東京へ行くだなんて何年ぶりだろう。

運良く座れた御堂筋線の車内、横浜でハンドメイドマルシェを開催中、という情報を見つけた。

Yちゃんに会う前に立ち寄ろう。

Yちゃんに会ったら、絶対に文句を言ってやろう。いくら何でも急すぎる。
もっと早く言ってくれたらよかったのに。

Yちゃんは専門学校時代、私の斜め後ろの席だった。

アジア圏の美しい国出身のお母さんと、早くに亡くなった日本人のお父さん。
見た目は日本人だけれど、色素の薄い髪や目をした特級の美人だ。

お母さんは外国人であることを理由に、お父さんの親戚からあまり良く思われていなかった。

そのためお父さんが亡くなった後は、ずいぶん苦労してYちゃんと弟を育ててくれたらしい。

「だから、私がお母さんを支えるの」そう言って決意の微笑みを浮かべるYちゃんは女神のように美しく、何度玉串を捧げようと思ったか知れない。

学生時代、いい加減な私は、たびたびYちゃんに叱られた。

課題がダルくてさぼる私。
「もこちゃん、ダメだよ、ちゃんとしないと」
深夜枠アニメをも超越した「めっ!」の顔をして、Yちゃんが言う。

眼福の意味を知った24の春。

作業に疲れて喋りだす私。
「もこちゃん、ちょっと集中させて。ちゃんとしよ。」
諭し口調であまり目を合わせてくれない時は、素直に引いたほうがいい。

このあと0時を過ぎるまで一言も発しなくとも「ちゃんとしよ」の獲得だけで今日生きた意味は200%回収済みだ。

Yちゃんは私を叱るだけでなく、きちんと褒めてもくれた。

「もこちゃんならできるよ」
「すごく素敵だと思う」
キラキラした笑顔でYちゃんにそう言われると、同性であっても本気で入籍したくなる。

アメと鞭とを巧みに操り、とにかくYちゃんは私を「ちゃんとした大人」に仕立てるのに熱心だった。

私のほうも、Yちゃんが私をちゃんとした大人にしてくれようとするのが嬉しかった。

久しぶりにYちゃんに会ったら、ちゃんとしたかどうか分からない私の暮らしぶりについての報告と、やはり今回の突然の召集について抗議しなければならない。

学生時代はやられっぱなしだった。
上京後すぐに訛りが抜け、中途半端な標準語を操っていた私がバリバリの関西弁を話せば、きっとびっくりするはず。

数年越しの反撃といこう。
そんな想像をしてから、ぎゅっと下唇をかんだ。

ところで、我がクラスには後藤という、空気の読めない奴がいた。
後藤は、いつ息をすっているのかわからないくらいしゃべる。
いっそ息を吸う機能が壊れたらいいのにと思う。

みんなが静かに集中していても、誰も相手にしていなくてもしゃべる。
しかも声が大きい。貴様の横に座る私の親友に、5dBを超える声で話しかけるな。

しかし後藤は注意も怒声も自らに対するイジりと捉え、みんなの愛されキャラだという勘違いに確信を持っていた。

後藤の心は硬度10のダイアモンド。誰が何を言っても、後藤には引っ掻き傷すらつけられないのだった。

私はそれを逆手に取り、後藤に日々、ここでは書けない罵詈雑言を吐いていた。
親友が後藤による連日の口撃でノイローゼ気味だったこともあり、本気で後藤を潰すつもりで雑談を引き受けていた。

けれど、そこでもYちゃんからストップがかかる。
「もこちゃん、そんなこと、思ってても言っちゃダメだよ」

美人に庇われて浮き足立つ後藤(←女)
けれど私は知っている。

Yちゃんは、私の発言が間違っていると思えば発言の撤回を求めてくる。
言いにくいことこそ、ちゃんと言ってくれるのがYちゃんだ。

しかし今回の忠告は発言の禁止であり、内容について言及はない。
つまり、Yちゃんも私と同意見だということだ。

もちろん後藤は気づかない。
Yちゃんに内在する僅かな毒素など、後藤が気づくはずがない。

クラスには、Yちゃんの親友であるミィちゃんもいた。

この二人は莫逆にて、見た目においても、才覚においてもお互いを認め合う、よきライバルであった。

クラスの男の子たちはそれぞれYちゃん派とミィちゃん派とに分かれ、放課後に熱い推しバトルを繰り広げていた。

今日はYちゃんだけでなく、ミィちゃんにも会えるかもしれない。

とにかく私は、学生時代に叱られまくったYちゃんに対し、今回の突然の所業について「早よ言わなあかんやん!」とベタベタな大阪弁でツッコミを入れようと意気込んでいた。

新幹線が減速を始める。

いつも車窓から眺めるのを楽しみにしている富士山。
快晴のこの日は気づかないうちに通り過ぎていた。

ハンドメイドマルシェへ行くために、新横浜で下車する。もの凄い人。
そうだ。しばらくぶりで忘れていたが、首都圏ではこれが当たり前だった。

人で溢れ返る橋梁と、突き抜けた青空とを睨みつけながら会場へ向かう。

会場内をウロウロしたと思う。
たくさんの作品を見て回ったはずだ。
作家さんと、作品についての会話を交わしたかもしれない。

記憶が曖昧なのは、私が隔絶されていたからだろう。
人々の熱気からも、青空からも。
会場をしばらく歩いていたはずだが、後日思い出せる作品は一つとしてなかった。

マルシェを楽しむ人混みを抜け、早めに会場を出た私は、以前住んでいた街に立ち寄ることにした。

かつてバイトをしていた駅前のビルは健在だけれど、多くのテナントは入れ替わっており、中に入ると外観から感じたほどの懐かしさはない。

少しだけ店内を回り、Yちゃんに会うために狭いトイレで着替えを済ませる。
目的の場所へ向かうため、再び電車に乗った。

改札を出ると、かつてのクラスメートに出くわした。
3人で歩く。
久しぶり、最近どうしてた?とお決まりの挨拶をしたような気も、していないような気もする。

もうすぐ、Yちゃんに会える。
再度脳内の文句リストをさらう。
あれもこれも、言いたいことはたくさんある。

すでに夕刻。式場には長い列ができていた。

同じ人混みでもマルシェにあったような賑やかさはなく、人々は受付でお決まりの挨拶を交わしたあと、アリのように黙々と黒い列を伸ばしていく。

Yちゃんがいるのはずっと上の階。
式場に入りきらない人は階段を登りながら順番を待つ。
先ほど合流したクラスメートの他に、何人も顔見知りがいた。

列の少し先に後藤を発見する。
目を逸らす私たちを見て取るやいなや、後藤は鮭のごとく列を遡り、合流してきた。

嗚咽と読経しか似合わない場所であっても、後藤は相変わらず何かしゃべっているのだけれど、今は私の親友がいないため放っておく。

登りきった先の待ち合いに、子どもと旦那さんを連れたミィちゃんがいた。

大きな目を真っ赤にしたミィちゃんが、椅子に引っ掛けたジャケットみたいになって座っている。

目が合うとミィちゃんは私に、Yちゃんは心の病気だったらしい、とだけ告げた。

Yちゃんがいる木の箱からすこし離れたところに、Yちゃんのお母さんらしい人と、年賀状で見たYちゃんの旦那さんがいた。

蝉の抜け殻のように背を曲げたお母さんを支える旦那さんを見て、やっぱりYちゃんはちゃんとしていると思った。

Yちゃんに捧げるのは玉串ではなくお花だった。
顔の近くはもっと親しい人のためにと、足元から敷き詰められた白い花。
私はYちゃんの腰あたりの隙間に花を添えた。

そうだ、私はYちゃんの手も大好きだった。Yちゃんはいつも、美しい指先を真っ黒にして、綺麗なものを創り出す。
今、Yちゃんの手は白く、お腹の上で美しく組まれているけれど、ちっともYちゃんらしくないと思った。

押し出されるようにYちゃんの顔があるほうへ近づいていく。

いよいよだ。
Yちゃんに文句を言うために、私は朝っぱらから新幹線に乗ったんだ。

Yちゃんの寝顔を見るのは、はじめてだった。

顎先まであるタートルにロングネックレスを合わせ目を閉じるYちゃんは、記憶より少し年を取っていて、神々しいほど美しかった。

Yちゃんの顔を見た瞬間、言わんとしていた文句のすべてが弾け飛び、「めっ!」の顔や決意の微笑みにとって変わった。

しんどいなら、もっと早く言わなあかんやん。

ミィちゃんにも、旦那さんにも言われへんかったん?

言いにくくても、ちゃんと伝えなあかんことがある言うてたやん。

なにちゃんと死んでるん。ちゃんとするとこ完っ全に間違ってるし。

Yちゃんはもっと笑っとかなあかん。
もっともっと創らなあかん。
もっともっともっともっと生きなあかんやん!

昨夜連絡を受けてから、ずっと浮遊していた言葉をかき集めようとする。
けれど私の震える唇は自動音声のように、ただ掠れた「あかんやん」を繰り返すだけだった。

あかんやん。
あかんやん。
あかんやん。

気づけば後列に場所を譲り、広いところへ出てきていた。

首も膝も折り曲げ、同じ言葉を繰り返す私の背中を、数人の友がさすっていた。

後藤には私の身体に触れて欲しくない。
「そんなこと、思ってても言っちゃダメ」
Yちゃん、私ちゃんと大人になってたよ。

朝まで残るというミィちゃんを置いて、最終の新幹線までの間、集まったクラスメート数人と駅前の喫茶店に入った。

誰からとなく、自身の近況や、ここにいないメンバーの活躍などを、ポツリ、ポツリと報告し合う。

誰かの活躍を聞くとみんなが一瞬「え!すご!」と身を乗り出し、はっとして座り直し、ため息をつく。そんなことを繰り返していた。

さっき会ったはずのYちゃんがここにいない。その理由を飲み込めないのは、私だけじゃないようだ。

「そういえば今日、佐古さんは?」
誰かが聞いた。
佐古さんは、言わずと知れたYちゃん過激派で、入学して割と早くに玉砕した人物。
Yちゃんに玉砕後は購買のお姉さんに熱をあげ、そちらも卒業前にきちんと玉砕していた。

玉砕後も佐古さんはYちゃんを諦めきれず、お姉さんと並行しながら「あわよくば」を狙っている様子を、我々は引き気味に見守っていた。
なので今日みんなが、佐古さんの不在を疑問に思うのも無理はない。

「全然連絡つかへんらしい」
私は、式場に来られなかった親友から得た情報をそのまま伝える。
「ちょっと精神的に病んでるねんて…」

みんなが言葉を失う中、正解の発言を探そうとするが見つからない。
何を言っても、今の私たちには受け止めきれないだろう。

なんというか、先ほどまでの出来事や、こうして集う今の時間、佐古さんの現状が、教室での思い出と陸続きだと思えないのだ。

今いるこの時間軸は、本当の世界なのだろうか。
明日Yちゃんが骨になるころ、昼ごはんを食べたり子どもと遊んだりしている私の世界を現実とするのは、正しいことなのだろうか。

気づかぬうちに、世界が地滑りを起こしていた。

もしかしたら、Yちゃんも。
いつの間にか起きた地滑りによって、ほんの少しずれた世界を歩いてしまったのではないだろうか。
それは誰にでも、いつでも起こりうる、些細なきっかけなのかもしれない。

誰も言葉を続けられずにいる中、呼んでいないのについてきた後藤が口を開く。

「いやー、それにしてもまさか、もこ氏があんなに泣くとはなー。そんな仲良かったっけ?今日大阪からきたんでしょ?わざわざ大変だったねー今から帰るの?ていうかほんとに関西弁話せるんだねー」
多分そんな事を言っていたような気がする。

一貫して空気の読めない後藤のおかげで、少しだけ現実が追いついてきた。
後藤だけは、かつての教室でも、たった今も、変わらず厄災であり続けている。

帰ろう。Yちゃんとの最新の思い出を持って、私の現実へ。

まさか後藤がみんなの役に立つ日がくるとは思わなかった。
少しだけ心が弛緩した隙に、置かれた方解石を持ち上げた。

後日、Yちゃんの旦那さんから葉書が届いた。

Yちゃんが、よく陽のあたる石の下へ引っ越したことを知らせる几帳面な字。

Yちゃんの名前にぴったりの新居だと顔を緩め、そっと葉書を伏せた。


雨音だけが聞こえる作業場で上を向き、押し殺した息を吐くと、音を外したリコーダーのようにヒィィーと声が漏れた。

自分から出た声と思えない間抜けな音の可笑しさに現実を合わせる。
あの日は言えず、今日は押し留めそびれた言葉たちが、頬に筋をつけていた。

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