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クリスチャンとして生きること~安息日について~

 世の中には多くのキリスト教宗派が存在し、それぞれの生きざまがまた多種多様である事を踏まえた上で、あくまで私自身が生き、見てきたものとして前置きしたい。

出エジプト記20:8「安息日を覚えて、これを聖とせよ」
 宗派の違いこそあれど、この原則は基本的には共通していると思う。我々は日曜日を安息日として特別な日として過ごす。教会に集い、奉仕をし、その日は極力仕事や勉強などいわゆる日々の煩い事は慎む。私の知り合いには生まれてこの方運動会に参加した事がないという人がいた。日曜日であったからだ。また知り合いのユダヤ教の非常に厳格な宗派の人は、日曜日はエレベーターを使わないという人がいた。仕事に関わるものだからという理由からだ。

 一方でじゃあ安息日だから全く何もしないのかといわれるともちろんそうではない。マルコによる福音書2:27「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」という聖句がある。安息日を守ろうとするあまり、家族や身の回りの人の世話をしなくなる様では何のための信仰か分からず本末転倒である。戒めには優先順位というものがあり、それに準じて行動するように求められる。マルコによる福音書12:31「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ、これより大事ないましめは、ほかにない」

 最も大事な原則は、宗教や信仰は全て人を幸せにするためを目的として存在するという事である。戒めは我々の行動を制限して我々をいたずらに苦しめる為にある訳ではない。安息日の原則は、この忙しくある現代社会において、週に一度くらいは世のわずらいごとから離れ、家族と過ごし、体を休め、英気を養う、そういった教えである。例えクリスチャンでなくとも、週に一度の安息を設けるよう努めていくことを通して、より日々の生活を乗り越える活力が得られるであろうことを約束したい。


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