和歌と鎌倉──『鎌倉殿』39話

 全編を通して、まるで和歌の世界をのぞいているような回だった。
 史実でも和歌に秀でていたという実朝は、このドラマのなかでは泰時に淡い慕情を抱いていて、その気持ちをそっと和歌に忍ばせ泰時へ贈る。しかし坂東の武者の子である泰時には、歌の素養がまだ備わってはいない。「返歌を楽しみにしている」と主から言われ、なんとか応えようとするが頭を抱えるばかり。それを、従者の鶴丸は呆れたように──でもちょっと楽しげに──見ている。
 思うに実朝は、泰時に和歌の素養がないことはわかっていて、そこに忍ばせた真の心に泰時が気づくとも思っていないのではないだろうか。ただ泰時が自分のために歌を考えてくれる、つまり泰時の時間と行為をひっそり独り占めできることを、ささやかに望んだだけだったのだろう。好きな人を困らせてみる、ちょっとした悪戯心と児戯のような駆け引きも含みつつ。
『春霞 たつたの山の桜花 おぼつかなき世を 知る人のなさ』
 実朝の見立てどおり、源仲章から意味を伝えられなければ泰時は歌に込められたものには気づかなかったに違いない。もしかしたら「間違っている」と返したときも、「いやでも本当に間違っただけかもしれない、そうであってほしい」という期待があったかもしれない。しかし、代わりに渡された歌が表しているのが「砕けて散る心」。気づいたとていかんともし難い実朝の思いを、泰時はひとり胸にしまうしかない。
 

 史実の実朝はともかくとして、劇中では、いわゆる同性愛者として実朝は描かれている。それも、異性をまったく受けつけないタイプなのだろう。
 男色や衆道といった、文化的嗜み、また政治的駆け引きの要素のある同性同士の営みと、生まれながらの性的指向はまったく別のものと考えるべきだと思う。実朝にとって泰時への想いは後者から生まれるもので、そこにはただ、純粋な慕情しかない。彼にとってその想いはガラス細工のように壊れやすく儚いもので、それを両手で包みながら、ひっそりと、そっと愛でていたいものだ。
 冒頭、病から復帰した実朝が、政子、義時と交わす言葉は、なかなかにシュールである。かつて頼家が病に倒れたとき、実朝は後継の覚悟を求められただろう。その後頼家が目を覚まし、しかし追放され──。実朝がどれだけその顛末の内側を正確に知っているかはわからない。しかし、代替わりにともなう仄暗い痛みをその場にいる全員が知っているはずである。そこをあえて皮肉めいた笑いに変えるところに、実朝の強かさの片鱗を見る。
 とはいえ、政に関してはなかなか上手くはいかない。17、18歳の若さで40歳を超えた経験豊富な義時と渡り合うのはまだまだ難しく、その義時や広元に、実朝を「褒めて伸ばそう」という気がさらさらないことも感じ取っている。自分の存在意義に悩む実朝に、誠実に寄り添ってくれる泰時。嬉しくて、ひっそり胸にしまっていた思いがつい、溢れる。
 泰時は気づくだろうか。いや、気づかなくて良いのだ。でもほんの少し、知ってもらえたら。いや、知らないままでいい。返歌を求めたときの物憂げな眼差しに、彼の揺らぐ心中も垣間見てしまう。が、実朝にとってはそんな揺らぎこそも、ひっそりと愛おしく思えるものなのだろう。
 放送後のネットでは、泰時は気づいたか、気づかなかったか、どこで気づいたか、いろいろ考察があって面白い。もし気づいていなければ、泰時はまたさらに返歌を考えねばと筆をとって悩んでいるはず、と私は思うけれど、捉え方は人それぞれであって良いと思う。歴史解釈など人の見方でいくらでも変わる。そのことは、『鎌倉殿』が早い時期から提示してきたテーマでもある。
 

 御台所の千世は、実朝になんとか寄り添おうと頑張ってきたのだろう。京のお姫様が、あらぶる坂東武者が闊歩する鎌倉にくだってくる、その覚悟の強さを、たおやかな見た目の一番内側に灯しながら。
 実朝は千世を邪険にはしなかったかもしれないが、女性として大事にもしなかった。それは一体なぜなのか、千世も5年以上、ひとりで悩みを抱えてきた。「女性を抱く気にはなれない」と打ち明けられたときの、彼女の胸中を思う。ふざけんなと横っ面を引っ叩いてもいいくらいだけれど、ただ、「やっとこの人の心が聞けた」という、目の前が開けるような感覚もあったかもしれない。
 これからは、「子どもができない」ことに対する周囲からの圧力に、千世も実朝と同じ目線でもって向き合うことになる。史実では仲睦まじい夫婦であったと伝わるから、実朝の「誰にも言えない秘密」を共有したことで、このふたりは名実ともにパートナーとなるのだろう。恋愛も、子作りという利害もない、ふたりだけの確かな絆を育みながら。
 ここにもまた、奥ゆかしい和歌の世界を見る思いがする。
 
 
 実朝と泰時、実朝と千世。
 互いの心の機微に目を凝らし、そっと触れようか、いや触れまいか、互いを思うがゆえに心が揺らぐ、そのさまはとても繊細で、美しい。それは、鎌倉に新しい時代が訪れようとしていることを表している。
 そこに不穏の種を蒔く義時も、そして「鎌倉は変わっちまった」と嘆く和田義盛も、そんな時代の変化から少しずつこぼれ落ちていこうとしている。
 三谷幸喜さんは「人はすぐには変わらない。行ったり来たりするんです」とおっしゃっていたけれども、時代というのもそうなのかもしれない。きたるべき新しい時代と、過去になりつつある坂東武者との間で綱を引き合うようにせめぎ合う。先へ進んでは、揺り戻し、また、先へ進む。雪の日の大階段がなかったら──そんなことを思ってしまう。

 蛇足ながら今回、和歌に苦戦していた泰時は、のちに自身も藤原定家に指導を受け、いくつもの和歌を後世に残す歌人のひとりとなっている。このあと泰時が和歌を学び、愚直に努力を重ねるさまが、坂口さんの演ずる泰時からは容易に想像することができる。あおった酒をただ苦いだけに終わらせなかった泰時が、また泰時らしい、と。
 思えば泰時は、父にたびたび反発し、もやもやしたものを抱えていても、「学べ」と言われれば素直に学ぶ。朝時が「なんとかしてくれないか」と兄を頼るのも泰時が御所のなかでそれなりの立場になったことを表していて、それも真面目に「学び」を続けているからだろう。譲れない頑固さと同時に、状況を素直に受け入れるしなやかな強さ。その姿は、「新時代の坂東武者」と言って良い。新しい世を自らの頭で考える力と、すぐには叶えられずとも継続しコツコツと努力する力──義時が見込んでいるのは、泰時のそういうしなやかさなのかもしれない。

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