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だらだらと。(そして、「孤独」と。)

午後、千本近くホチキス(ホッチキス? ホチケット…?)を打った。
帰宅して缶ビールの栓を開けようとしたら、ちょっとだけ手に力が入らなかった。σ(^◇^;)

帰り、今日はお酒(ビール)を買わなかった(いま飲んでるのは、昨晩買って飲まなかった残りの1本。)。
晩ごはんも特には何も買わなかった。
買ったのは、明日のお弁当用のおでん(ビニールの袋に入ってあっためるだけのやつと、+αの具を幾つか。)。買い忘れたのは、シンクの排水溝用のネット(とか書いているうちにビールは飲み終わり、すでに口寂しい。)。
寒いからでも、ダイエットでも、禁酒や節酒のつもりでもないんだけど、ただ、何となく。

 ***

今日、社食でカツ丼を食べながら考えてたんだけど、息子はともかく、私は「妻」と会うことはかなりしばらくないのだろうな、と(我々の親の死や、娘・息子の結婚や、あるいは離婚手続きとか…。)。
「妻」が、昨日書いたように「離婚したいけど、あなたに会うのも嫌!」と思い続けているのか、あるいは、きっとあまりあり得ないことなんだろうけれど、
(ちょっとこじかには申し訳ないことをしたなぁ…。)
とか反省(後悔?)しているのか分からないけれど(←後者はかなり無さそう。だけど、でも、去年の春以降一度だけ、電話で、「あなたにはちょっと申し訳ないような気もしてるわよ」みたいなことを言ってくれたことはあるので。)、いずれにせよ、私からは連絡することができないので、彼女からの、
「さあ、離婚の手続きをしましょう!」
って連絡や、あるいは、
「ごめんなさい。ひどいことをしたわ…。」
って電話があることを待たねばならないわけだが、そのどちらも、可能性としては極めて低いのだろうと思う。
もし私が彼女に会う機会があるのだとしたら(上述のような場面か、あるいは)、私か彼女かのどちらかが意識を失って倒れる場面くらいしか無いような気がする。しかも、もし私が倒れたときは、
(なんで私が駆け付けなあかんねん。ホンマ、ウザイなぁ…。(-.-#))
って思われる可能性も(大いに!)高く、だから、倒れて意識を失うのは彼女であってもらわなければ(私は)困る。そんな「上手いこと」、無いかなぁ?(苦笑)(もちろん「妻」にはすぐに快復してもらう予定で。(^0^))

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まったく別の話題。
ドローン技術の話(今朝、出勤時のラジオから。)。

レベル3。
「人がいない場所で、視認できない位置」での操縦をそう言うのらしい。それが今一番高いレベル。災害復興や、橋脚・橋梁等の点検作業がそれに当たるのだそうな。
それが、レベル4、「人のいる場所で、視認できない位置」での操縦が認可される方向なのだという。今年度中を目処に。

もちろん、あれこれと基準があるのだろうとは思うが、そうでなければ、例えば朝起きてカーテンを開けるとそこにドローンがいたりする、なんてことが想像される。いいのか、それ…?!

「家」の前に飛ばしたい。
息子の様子を見たい。一緒に登校したい。
私、ストーカーになっちゃうよ…。

世の中は、stalkする人とstalkされる人とに分かれてしまうんだろうなぁ。
私はする人で、されることはきっとないだろう。だとすれば、私の人生は誰かをstalkすること? なんか、この上なく情けない。

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トップの写真は昨日**市の図書館で借りた本。もう3往復くらい読んじゃった。
ってのはもちろん嘘で、難解で、550頁ほどあるこの本は私にはスラスラ読めたもんじゃないんだけれど、それでも、どこか「気が合う」というのか、何となく私は彼(三浦雅士氏)が好きなんだろうと思う。
実はとある一節を探してこの本を借りたんだけど、3往復しても4往復してもそれが見つけられない。そんなはず無いのに…。(涙)
でも、それとは別に印象的な箇所が幾つもあって、すでに10枚近く付箋を貼っちゃった。

 人は孤独によって結合する。
 孤独は人間の特性である。誰もが孤独だ。それは誰もが私であるのと同じだ。だが人は、誰もが孤独であるというそのことにおいて結び合う。いわば、人と人とは分かりあえないということだけは分かりあえるというかたちで、分かりあう。孤独な読書において、人は、数万、数十万、数百万の孤独な魂と結びあうことができる、時代を超えて。

(『孤独の発明』三浦雅史/2018/講談社/p.11)

探している一節はどうもここには無さそうなので、次はゆっくりと、理解に努めながら読み進めたいと思う。