『25時』第1話 昼の影

「しんどい。」

ふと声を出してみる。

誰かに助けを求めている訳ではない。
独りの部屋、
何を言おうと誰も助けてくれない。
何を叫ぼうと誰も助けてくれない。

でも、それでも、
自分の中の何かを「声」という形に変えることで
自分の中の何かが軽くなる気がするのだ。

同じ時間に起き、同じ時間に大学へ行く。

親の仕送りと少しのバイト代で何不自由なく過ごせている。
大学の連中に面白い奴はいないが別に何の問題もない。
愛想笑いも高校の時より随分上手くなった。

自分は恵まれている方だ。
この何気ない日常の繰り返しが幸せなのだ。

「しんどい。」

ふと声が漏れていた。


時刻は気づけば20時。
レポートに思ったよりも時間がかかってしまった。

大学の帰りに寄ったスーパーの袋を開ける。
今日はアジのフライだ。
いつもは肉系の惣菜を買うが今日は違う。
何となく魚の日だったらしい。

ウスターソースを溢れんばかりにかけ、口いっぱいに頬張る。
うむ。美味くも不味くもない。
これぞアジフライって感じだ。

もう当分魚は買わないかな。
そう思ってパックをシンクに投げ入れ、シャワーを浴びる。
一人暮らしを初めて一年くらいはシャワーを浴びるのが面倒臭いと思っていたが、今はそれすらも思わない。
無感情で日常を繰り返しているのだ。

シャワーを浴び終わるとテレビをつけ、髪を乾かす。
ドライヤーでテレビの音は聞こえないが、そんなことはどうでも良い。
テレビなんて見ているようでほとんど見ていない。
テレビを無意識に眺めているという事実さえそこにあれば十分なのだ。

どれくらいだろうか。
かなりの時間テレビを眺めていた。
内容はほとんど通り過ぎてしまっていたが、バラエティ番組のわざとらしい笑い声、CMのうるさいメロディなどが耳に蓄積され、ボーっと眺めるのにも疲れてしまった。

何気ない日常を送るのにも体力がいる。
しょうもないテレビを見るのにもエネルギーがいる。

「しんどい。」

日常のコップに少しずつ溜まってきた退屈の表面張力が限界を迎え、溢れ出した。

なぜだかわからない。
よく覚えていないと言う方が良いのかもしれない。
涙が一粒こぼれた。

涙を流すというのは本来恥ずかしいことだと思われる。
ただ、その涙で悪い気持ちになるどころか、清々しい気分になった。
今まで無感情で枯渇し切っていた心はこの涙を求めていたのだろうか。
その一粒の涙は自分の心を十分すぎるほど潤した。

不思議なものである。
潤った心は自分の可能性を無限大に感じさせ、何でもできるような勇気を芽生えさせた。

何かの刺激が待っている。
そんな気がしたそのとき、どこからともなくこの言葉が浮かんだ。

  夜を歩こう

理屈は全くわからない。
でも、そう思ってしまった。
「散歩へ行こう」ではなく、「夜を歩こう」。
その違いはまだ自分にはわからない。
わからなくて良いと思う。
ただ、今は夜を歩かなければならないのだ。

部屋を出た。
部屋を出るしかなかった。
テレビや部屋の電気は消したか、戸締りをしたか、
それらもよく覚えていない。
もはや使命感と言って良い。
何かに導かれるように夜道を歩き出した。

蛾の集った電灯。点滅の信号機。無駄に明るい自販機。
そして、暗闇。

高揚した。
周りが寝静まった今、自分だけがこの暗闇を支配している。
ある種の罪悪感とも言えるその感情は退屈な日常における最高の刺激となった。
たまに買う魚の刺激と比べ物になるはずなんて当然ない。

  影を踏み、夜を歩く。
  僕はどこへでも行ける。

時計の針は午前1時を指そうとしていた。


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