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令和6年能登半島地震忘備録その3

地震から4日目には仕事始めだった。会社の従業員の安否は事前にほぼ確認できていた。被害もあまり大きくなさそうだ。会社内部は夫が確認したところ、それなりの散乱状態だが、直接稼働には影響なさそうに思える。幸い従業員も全員出社できて、まずは大掃除のやり直しからだ。私が普段仕事している部屋は全くの無傷で、書類一つ落ちていないのも逆に不思議なくらいだ。私はホームページのブログで状況報告をすることにする。取引先の銀行や商社がお見舞いにやってくる。新年おめでとうございますと言っていいものやらどうやら…と、皆何となく複雑な面持ちに見える。
5日目にはかねてからの予定通り、新年会を行なった。従業員とお互いに近況などを話しながら食事をし、いつも通りワイワイと笑っていると、普段通りの一年の始まりなんだけれど。夫はまた飲み過ぎたようでご機嫌だった。今回の地震に関しても、楽天的というか、肝が据わっているというか…全く慌ても騒ぎもしなかったのは、彼の美点のひとつなんだろう。とはいえ、逃げるときは急いでほしい。
両親の方は近所や地元の人たちの被害が思ったより深刻だと言う。自分の生まれ育った地元のあちこちに深い傷痕が残されている。古い港町で歴史的な建物もたくさんある。復旧するまでどのくらいかかるのだろうか。両親の親戚たちは金沢や小松に住んでいて、今回は怖い思いをした。幸い全員無事だったが、従兄弟の会社は志賀町だし、伯父は能登の出身だし、縁のある場所がどうなっているのか心配でならないだろう。
今回の地震被害でよく耳にしたのが、テレビが落ちて壊れたことと庭の灯籠が倒れたことだ。灯籠の撤去及び修理は順番待ちらしい。
それからお正月に実家に行っていた友人たちは、ほとんどが親を自宅に連れ帰ってきていた。
やはり高齢の親を置いておけないのはもちろんだが、それだけ親と別世帯で暮らす人が増えているということを実感した。
安否確認でいうと、知り合いにLINEで一斉に知らせることができたのは便利だった。少し落ち着いてからやり取りしたが、温かい言葉がありがたかった。
次男の暮らすアパートの部屋は全く変化ナシだったらしいが、会社の方はそれなりに被害が出ていた。
よく釣りに行く海はびっくりするくらい穏やかだったと言っていた。そういえば、実家を片付けに行った時、いつになく強い海の匂いが漂っていて、やはり津波がそこまで来ていたんだと思った。海のそばに暮らしているのを幸せに思っていたけど、やはりこんな体験をすると怖い。
末娘は少し冬休みが残っていたけど、早めに大学のある大阪に戻って行った。また電車が動かなくなると困るし、余震のない生活に戻してやりたかった。
あの日、彼女は学校の避難訓練のお手本みたいに机の下に潜ったけど、今思えばすぐに逃げても良かったと言った。古い家だしそのまま押しつぶされる可能性もあったから。予行演習になったねーと言う私に、一発本番だったじゃん、と言う。確かにこれが本番じゃなかったら何だったのか。まずは逃げ道確保が大事だね!で一致した。今回の帰省は子どもたちにとっては一生忘れられない経験だろう。心残りはみんなでカラオケに行けなかったことだけど、みんな生きてるから次は行こうねと約束ができる。それは本当に幸せなことだと今だからしみじみと分かる。