令和6年能登半島地震忘備録その2
地震から6日が経つ。大変な被害状況が毎日のように報道されている。情報も刻々と更新されていき、自分の住む町では日常生活が取り戻されている。
あの日からのことを忘れないように、書き残しておこうと思う。
地震当日の夜は月がキレイでなかなか眠れず。
服を着たまま横になる。子どもたちは自室のドアも閉めなかった。
地震翌日も天気は晴れ。断水した実家の片付けに向かう。ポリタンクに水を汲み、私と両親、次男、末娘の5人で車に乗り込む。明るくなると逃げる時には見えなかった景色がはっきり見える。倒れたブロック塀やガラスの扉、崩れた外壁、転がった銅像…
片付ける前に地震の影響と思う所は写真に撮ることにするが、家のヒビや亀裂が前からあるものかどうか判断に迷う。転がった植木鉢や割れた花瓶、落ちている壁時計や本棚のガラス扉は間違いない。
でも逃げるときには全く気づかなかった。それくらい必死だったと思う。想像よりダメージは小さいが度々揺れる余震が怖すぎて、貴重品と着替えなどを持ち出して早々に退散。ガスの元栓とカギだけはしっかり閉めた。自宅に戻ると夫の実家の両親が一緒にお昼ごはんを食べましょうと準備してくれていた。義理の妹家族もやってきて、お正月をやり直す。少し緊張が解けてありがたかった。
長男は仕事のため、再開した臨時便に乗って東京に戻る。事前に乗車券を買ってあったので乗り込めたが、当然ながらすし詰めの新幹線。それでも駅には切符を求める長蛇の列ができていた。「ありがとう。気をつけて!」と言う私に、「こっちのセリフだよー」と長男は笑ったが、親としてはリスクのある場所から逃がしたい気持ちが大きかった。
その日もまだ実家の水は出ず、両親は滞在を延長した。早めにお風呂を沸かして温まってもらった。
少しはホッとしてもらえただろうか。
次男と夫は少しアルコールが入り過ぎたらしい。
ここでまた大きく揺れたら逃げられるのか?
末娘は少しの揺れでもナーバスになっている。
心臓がギュッとなる、と不安そうだ。
みんなで喋りながらテレビを見ていると少し気が紛れるけれど、脳はまだ興奮状態だ。
3日目の朝は少し曇り気味だがまだ暖かい。
休刊明けの新聞の一面はもちろん地震一色だ。
父はコーヒーを飲みながら眺めている。
母は翌日から仕事の私たちを気遣って自宅に戻る気だ。ペットボトルと給水バッグに水を汲み、とにかく帰ってみると言う。生活が無理そうならまた戻れば良いし、一旦帰宅することになった。
そのタイミングで次男も仕事先に戻っていった。
「何だかちょっとだけ楽しかったね」とお気楽に言い残したが、みんなが無事だったからこその非日常だ。しばらくして、母から水が出たよ!と連絡があり、何かあったらすぐに連絡することにして、我が家への避難は終了となった。余震でなかなか熟睡できなかったので少しだけ仮眠を取る。夢の中にいたような3日間。身体はずっと揺れを感じている。テレビの中ではまだまだ続く過酷な現実だ。多分紙一重の差だったと思う。そして、また襲ってくるかもしれない不気味な地震。誰かがこれで今回は終了!って宣言してくれたらいいのに。