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令和6年能登半島地震忘備録その1

北陸にしては珍しく青空で雪のない正月。
夫と3人の子どもと一緒に実家への年始挨拶に向かった。途中、実家近所の気多神社へ初詣に寄り、次男は「おみくじが半凶だよー!」と仏頂面に。
参道で白いスニーカーが泥だらけになり、このくらいで済んでよかったじゃん、と笑い合う。
実家に着いたのは13時頃。母の手料理を食べながら、ビールとワインが次々に空いたが、運転手の私はノンアルコールで。近況や昔話に花が咲き、甘いものやコーヒーが出てきて、そろそろカラオケでも行きたいなと考えていたところ、緊急地震速報が鳴った。
隣室の電気の傘が揺れて、築50年弱の実家の屋根が軋む音がした。一瞬みんなが「え?」と言う顔になったけど、一旦収まり腰を下ろし直した瞬間、聞いたこともない音と衝撃で家が揺れ始めた。
縁側の窓際に居た次男に「縁側の窓開けて!」と怒鳴って揺れが収まるのを待つが、どんどん強まり、家中で何かがガチャンガチャンと落ちる音がする。
長男は開けた窓から外に飛んで「早く逃げて」と叫んでいる。次男は母にかぶさって頭を守り、末娘はテーブルの下へ。夫は本棚が倒れないよう立ち上がって押さえている。私も窓から外に飛んで、皆に早く出てくるように必死に「逃げろ」と怒鳴ったが、長男は「瓦が落ちるかも」と冷静に離れた場所に移動する。近所の家からも悲鳴と大声が聞こえる。電信柱と電線が狂ったように踊って見えて、これはもう家が潰れるかも…と覚悟した。少し揺れが小さくなったと感じたとき、娘と夫、次男と母が窓から出てきて、家の玄関側に走った。父だけが玄関から靴を履いて脱出。近所の人たちも不安そうに外に出てきたが、まもなくサイレンが鳴り響いて、津波警報が流れた。実家は国分浜のすぐ近く。海が見える。
これは相当まずい、高台に逃げなくては。
「津波なんか来ない」と言い張る父を説得しながら、上着やらカバンを取りに行こうか迷っていると、子どもたちが「絶対に戻ったらダメだ」「何もなかったらそれでいいからとにかく逃げよう」と言い、坂道を上がって高い所を目指す。周りの人達も半信半疑だけど、とにかく人の向かう方へ動いていく。途中のブロック塀や電信柱が怖い。
さっき初詣に行った気多神社の坂道にはもうすでにたくさんの人が並んで海を見ていた。
そこまで上がるには両親には時間がないと思い、伏木高校のグラウンドに出た。消防車やパトカーも続々上がってくる。避難してきた人もそれぞれ海を見ていたり、携帯で連絡を取ったりしていた。
時間にして地震発生から15分くらいだったかと思う。遠方に住む弟からも電話が入る。「今逃げてる、大丈夫」とだけ伝える。
だんだん空が暗くなり始め、寒くなってくる。
自治会の人、消防団の人が声かけを始めて、高校を開けてもらうから待つようにと言われた。
津波はどうやらまだ上がってこないようだった。
その時、夫が「車で自宅に移動しよう」と言う。
自宅までは車で30分くらいで、山側だから津波は来ない。
全員乗れる車は私の車で、運転できるのはアルコールが入っていない私だけ。
私と次男と夫の3人が車を取りに行くことにした。
実家に戻ると、電気もつけっぱなし、窓も開けっぱなしだが仕方ない。車に乗り、高校へ戻る。
自販機で買った熱いお茶を皆に渡す。
母がカバンと上着を取りに行きたいと言い、
急ぎでUターン。まだ余震が続いているので、家に入るのは怖かった。散乱しているテーブル、落ちた時計、割れた花瓶。必要なモノだけ手にして、玄関のカギを掛けようとするが、父も酔っている上、混乱していてなかなか掛けられない。逃げなくてはという気持ちだけで焦る。
道がどうなっているか、信号が付いているか分からない。とにかく大きな道を通ることにする。途中、コンビニやガソリンスタンドにはもう車がたくさん並んでいて、万葉線は軌道上に止まり、中は空っぽで誰もいない。これは本当に大変な災害になったのだとやっと実感し始めた。
スマホのLINEも見たことのない数の通知がつく。
とにかく無事に家に戻らねばとハンドルを握り直した。ようやく自宅に着き、靴を脱ぐと父以外の全員の靴下は泥だらけだった。次男は「半凶がこれ?」と呆然としている。だけど、全員が無事だった。子どもたちの声かけとサポートがなければ両親を連れ出せなかったかもしれない。テレビの中の惨状が自分の身に起こっているのがなかなか信じられない。
LINEのタイムラインに無事ですと書き、皆の無事を祈った。