令和6年能登半島地震忘備録それから
地震から2週間が過ぎた。私の周りの日常はほとんどいつもと変わらないところまで戻ってきた。けれど、地震の前と後では、いろいろなことが変わったように思う。
今年は平年よりずいぶん雪が少ないのだけれど、
それでも雪が降らないでほしいと祈ってしまう。
テレビの報道で、まだ避難場所で過ごすたくさんの方たちの顔が浮かぶから。被災した方のインタビューで流れる方言は私にとって近所の方が話しているのと同じ言葉だ。優しくて我慢強い能登の人たちが
途方に暮れているのが何より辛い。みんなふるさとを離れるべきか迷っている。自分の両親に同じことが起こってもおかしくなかったのだと思うと心が痛む。とにかく、今は安全で安心できる場所で春まで休んでほしい。
地震のあと、町のホームセンターには防災用品がたくさん並んだ。とにかく被災時の今日明日、自分で命を守るためにみんなが準備を考えるのは大切なことだ。
私も両親と一緒に非常持ち出し袋を見直し、寝る時にはありったけの容器に水を溜めている。
それでも、やはり余震は怖い。前触れもなくまたあの日に戻されるかもしれない。その恐怖を知ってしまった。でも震えながらじっとしている訳にはいかない。
日常で当たり前に思っていた水やトイレやお風呂が、あっという間に失われてしまうこともあるのだとも気付かされた。電気も道も、当然のように使えるわけではない。社会の仕組みと誰かの仕事が見えない所で支えてくれてこそなのだ。
今日も警察や消防や役所や自衛隊の方々が、寒空の下で黙々と復旧に当たってくれていることへの感謝と敬意は決して忘れない。
神戸、東日本、新潟、熊本、北海道…いくつもの大地震のたびに、立ち上がって前進する人たちを見てきたけれど、みんな心を奮い立たせて頑張ってきたのだと今更ながら気づかされた。
能登は私の住む町からは県は違うが本当にお隣だ。
幼いころも、学生のころも、子どもができてからも、ドライブに行き、観光に行き、泊まりに行き…たくさんの楽しい思い出と美味しい食べ物、美しい景色に溢れている。今年はまた禄剛先灯台や見附島に行きたかったのに。能登島水族館のクラゲを見たかったのに。まだ道の駅のイカキングにも会っていない。いつまでも変わらずそこにあると思っていた場所に行けなくなったやるせなさと淋しさは言葉に表せない。どうかあの美しい能登半島がいつか必ず戻ってきますように。ずっと忘れず応援し続けて行こうと思う。