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教育虐待のもとと、社会的な処方箋

社会的マルトリートメント(不適切な養育)という概念を提唱した武田信子さんのnoteを拝読した。

「教育虐待と教育熱心の違いはなんですか」という問いは、需要があるらしい。

虐待と熱心の違いは何、という問いが生まれること自体が、子どものことを話しているのに、当事者である子どもの思いが不在である、ということがよく表れているなあ、と悲しくなります。

武田さんが提案している、教育虐待のストッパーになりうる重要事項は、「子どもとの対等な対話があること」。(詳しくは上記noteを参考に)

これは私も、正にそうだなと思います。教育を受けている子どもが当事者として、主体的に自己決定に関わっていること、すなわち子どもが対等な存在であることが、何より大事です。

何をやったらいいか、悪いか、どんな声かけがいいか、悪いか……などの、テクニックの問題ではなく、「子どもをどういう存在だと思っているか(対等な存在か、取るに足らない存在か)」のメンタリティーがその根幹に関わっています。

セクハラなどと近くて、虐待かどうか決めるのは子供で、お互いの認識の違いがあるとすれば、明らかに(対等な)対話が不足しているのだと、思います。

自分の取り組みの中で

占い相談でも、時折「これは教育虐待もしくは虐待予備軍」と思わさる案件がありますが、その兆候のある方は、だいたい3パターンで、

①親から条件付きでしか認められなかった
②親にあまり向き合ってもらえなかった
③自身の過去の人生の不満へのリベンジ

こういった心の闇を抱えています。上記が複数コンボしてる場合もあります。

いずれにせよ、子どものためと思いながら、実は親の人生の焼き直し(繰り返し)か、やり直しの投影に子供を使っているという、深刻な状況です。

子供は、親とは別の独立した人間だし、親の過去でもなければ、未来でもないはずなのですが、養育という生殺与奪の権を握っているという点と、20-30年先に生まれている経験の多さで、親子というのはもともと権力差があります。(なので、対等というのはある意味幻想で、私たちがしゃがんで彼らの目線を合わせることでしか、実現しません)

一人の人間の不満や願望というのは強い感情を呼び起こしますが、それが権力と結びついた時、人は他人を蹂躙したり、支配することを始めることがあります。

DVや性暴力もその機序で生じるものだと考えていますが、教育虐待も、そういった暴力と本質的には同じことです。

ただ、重ねて申し上げると、この加害者になっている大人(親)たちは、そもそも自身の在り方への安心の欠如、人生への不満、自己否定というものに困らされている被害者でもあります。

子どものことを色々議論する前に、大人のそれ(不安、不満)をケアしないことには、この問題の解決はないでしょう。

タイトルは「社会的な処方箋」としましたが、今のところは、私は占い相談を通して個人レベルでケアに取り組んでおり、社会全体に対しては、まずは、「加害者も困っている」ということの周知からなのかな、と思います。

ケースワーク

さしあたり、個人レベルでしていることのケースワークのようなものを述べたいと思います。

かつて、近しい大人が与えてくれなかったことを起源にした、安心の欠如、そして、自分が何かを得ることができなかったという過去への不満は、子供を使わずに自身と向き合って、自分で取り返さなければなりません。

たとえばかつて学歴が欲しかったとしたら、(自分で)学歴を取り直すのもよいでしょうが、大抵は、その人が欲しいものは、学歴そのものではないはずです。


学歴があったらどうなっていましたか? どんな良いことが?

→良い会社に入れる。

良い会社に入ったら、どうなっていましたか?どんな良いことが?

→お金がたくさん得られる。

お金で何が欲しいのですか?

→〇〇、〇〇、〇〇(物質的なもの)

〇〇は、あなたに何をもたらしますか。

→幸せ。

あなたの幸せってなんですか?

→……………


上記は一例ですが、こういう問いを、何ターンか続けると、自分の欲しいものが、もとのコンテンツそのものではなく、それがもたらす何かであることが、わかるでしょう。

(ちなみに、自他様々な経験、ケースから断言しますが、幸せと学歴は本当に無関係です)

まあ、コンテンツ自体を取り直して本当にそれで気が済む場合もありますが、取ったところで、何も変わらないことがほとんどです。「安心の欠如」は、コンテンツ自体ではなく、「安心」でしか埋まりません。

それをこれから何で得ようかといえば、結局は、現在の自分を安心安全な環境(主に精神的な意味)に持っていくようにセルフケアをするとか、自分自身はこのままで良いし、かつても実は良かったのだ、と認知を変えることが、その手段となります。

なお、何か具体的な目標達成、もしくはコンテンツ取得を通して気が済む場合というのは、その過程で得た、「自己信頼」「新たな認知の取得」が安心のもとになるというケースです。

コンテンツ自体ではなくて、「過程を通して得た」という要素を強調したいと思います。見た目の目標やコンテンツは、何かを得るための箱、フレームでしかなくて、欲しいものの本質ではないのです。(ちなみにこれは子育て、教育においても同じことが言えます)

まとめ

このように、ケアはほとんど、「見えないもの」「こころ」などのパーソナルな話の領域だし、理屈だけで片付くものではないから、「社会全体で何かを取り組む」というのが、雲を掴むような話で、形にしづらい、という難しさがあります。

ともかく、加害、虐待は、世代を超えて連鎖していたり、結局は私たちの社会全体が作り出した圧迫が助長しているところもあるため、ある1人の親のせいではない、ということで、締めたいと思います。

みんなで少しずつ、自分や他人に寛容になり、「自分を否定するなにか」から、解き放たれていければ、それが社会的な処方箋と言えるものになるのかもしれません。


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