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文章の良さ、映像の良さ~小説を読むのが苦手な僕の話~

【注意】※映画『青くて痛くて脆い』の微ネタバレを含むので、気になる方はご遠慮ください。

僕は読書が苦手だ。

小さい頃からあまり本を読むことを習慣化してこなかったからなのか、長時間ずっと集中して字を追い続ける忍耐力がないからなのか、とにかくあまり日常的に読書をしない。評論、随筆も苦手だが、小説を読むのも結構疲れてしまう。1回の読書でよくてもせいぜい30ページくらいしか読めない。50ページも読めば、「お、今日の俺は頑張った。」なんて思ってしまう。

ただし、別に内容に興味が持てないとか、難しい話が理解できないから嫌いとかそういうわけではない。事実、僕はメッセージ性のある映画をやアニメを見て、感想戦と称し、友達とその内容に関して議論しあうのはとても好きだし、新書のような書物を読むのは嫌いでも、特定の学問の専門的な学術書を読むのは好きで、化学の教科書なんかは日常的に読む。そうやって自分のなかの思考や論理を常にアップグレードさせることに関して時間を惜しむことはほとんどない気がする。(もちろん読書が単にめんどくさいのはあるが、とはいえ映画も別に頻繁に見るわけではない。)

ではなぜ「読めない」のか、というより「読まない」のか。長い間ずっと疑問であったが、ついさっき考えていてふと一つの考えに達したので、記すことにした。

・映画『青くて痛くて脆い』を観て

昨日、新宿のとある映画館で『青くて痛くて脆い』を観てきた。(リンク:https://aokuteitakutemoroi-movie.jp/)映画のネタバレはできるだけ避けるが、簡単に感想を言うと、人間関係が多様になり、居心地のいい場所も人によって多様化する大学生だからこそ起こりうる人の変化とすれ違いを描いた、素晴らしい作品だった。全ての大学生にみてほしいと思ったくらい…(特に3年生以上には。)

実はこの作品、有名な『君の膵臓をたべたい』を書かれた住野よる氏の作品で、青春の脆さを描いた作品だそう。当然、読書が嫌いな僕はそれを読んだこともなかったわけだが、映画を観終わった後に原作を事前に読んでいた友人にその内容を聞いてみた。そうすると彼が言うには、「映画自体は原作とほぼ同じ内容だったが、原作にあった作中のある人物のある行動の原因の決め手の描写が映画にはなかった。」とのこと。原作を知る彼的には「ほんとはこれがあったからやねんけどなあ。」という感じだそう。

これが、僕のなかでは結構引っかかった。と同時に「なるほどこれが、自分が小説よりも映画を好む理由なのかもしれない」と気づいた。

・小説と映画の違い

小説では、登場人物の行動や、心情表現、声のトーン、見た目などの描写はすべて文字の組み合わせによって表される。その表現が繊細であればあるほど、読者はその情景を鮮明にイメージできるし、そこにいる感覚を味わうことができる。それが上手い作家ほど、面白い物語が書けるのだと思う。ただしその一方で、元々のイメージが存在しない以上、登場人物の心情表現を読者が理解するには、(おそらく)必ずそのきっかけとなった出来事を「文章」にして表さなければいけない。すなわち、心情変化の原因を必ず「文字の証拠」として残さなければならないのではないか。

対して映画はどうだろう。当然ながら、登場人物の仕草や表情、声、見た目をリアルタイムで我々は追うことができる。そこに変化が起これば、たちまち我々は登場人物の心情に何かが起こったと察する。(声を荒げたら怒っている、みたいに。)ここまでは文章を用いても可能な表現なのだが、この変化が微妙になっていくとどうだろうか。つまり、登場人物の見た目が少しだけ変わった、次の描写では少々声が明るくなった、その次では一緒にいる友人の数が1人増えた、などのようにである。おそらくそれら1つ1つの描写からは特に他の人物の心情に影響するほど大きな変化は起こらない。だから特にそれに関して心情表現が入ったり説明が入ることはないだろう。でももしそれらが積もり積もって知らず知らずのうちに大きくなって、気づけば周りに大きく影響を与えるような変化になるとしたらどうだろうか。

実際、僕が思うに映画版『青くて痛くて脆い』はそれが非常によく表現されていたのではないかと思う。ただ映画を観ているだけでは、登場人物の行動の決定打になるものがなんなのかはっきりわからない。だから観た人によってはその行動が単に「気持ち悪い」ものにしか見えないかもしれない。行動の原因がはっきりと描かれていない(そして俳優さん女優さんの演技が名演技すぎる)映画だからこそなせる業ではないだろうか。

・まとめ〜文章と映像、論理と感覚〜

さてそろそろ長くなってきたのでまとめようと思う。小説は、何もない紙の上に文字の連続を並べるだけで、読者に豊かなイメージと想像力をもたらしてくれる。だから読者は自分の頭でその世界を創造することができるし、人物の気持ちを感じ取ることができる。ただし、それを媒介するのが文字である以上、その動きを感じ取るかなめになるのは「論理(logic)」ではないだろうか。登場人物が何か行動をしたとき、その様子はかならず文章で表現される。その強さや明るさ、奇怪さを理解して頭の世界でイメージにする際、無意識のうちにその前の描写と論理的整合性があるように文章を解釈してイメージにするのではないだろうか。

一方映画では、すでに登場人物の容姿や声の明るさ、その仕草は確定されていて、そこに我々のイメージが入り込む余地はない。ただし、世界の媒体が映像であるからこそ、その動きを感じ取るかなめになるのはおそらく「感覚(feeling)」ではないだろうか。あるシーンで別に何かが決定的に前と異なるわけではなくても、人物の様子、仕草が少し変わる(例えば人物の服装が少しオシャレになる)だけで、おそらく観ている人は「あれ?何か変わった?」となる。論理ではなく感覚であるからこそはっきりしないのだけれども、これは映像ならではの現象ではないだろうか。

現実世界においてもこれは同じではないだろうか。他者に変化が少しずつ起こっていたとして、それをいくら「論理」的に考えようとしても、考える以前にその人の微妙な変化に「感覚」で気づいてあげられなければ、おそらくその人にうまく寄り添うことはできない。「感覚」で異変を察知しつつ、その人の立場に立って「論理」的に考える。その両方を持ってこそ、他者と良い人間関係が築けるように思う。

僕が小説より映画を好むのはたぶん、これまで生きてきて多くの人と出会ってきた中で、他者の気持ちを感覚で察することの重要性に気づかされた経験により恵まれたからなのだと思う。人と会って話すとき、なんとなくだが、その人の行動の理由とかを考えるよりも先に、その人の様子とかテンションとかが気になる。たぶんそういう自分の性格が相まって人を見るときに動き(映像)を通して見たいと思う。ただそれだけなのだろう。とはいえど、小説を読まなくていい理由にはならないので、そこは注意していきたいと思う。

それに、文章の力で成す精巧な論理も、映像の力で与える機微な感覚も、優れた作家さんの表現力と類まれな役者さんの演技力があってこそのもの。それゆえ、小説だろうと映画だろうと素晴らしい作品にはただただ頭が下がるばかりである。

お読みいただき、ありがとうございました。


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