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「悪い鬼」とは何なのか、或いは人の祈りの話

※鬼滅の刃の単行本未収録話(2020年7月現在)についての話題を多分に含みます。ご了承ください。※












今更ですが、鬼滅の刃完結おめでとうございました。一話から週刊で追ってた身としては感無量の一言。最終回で突如推しがドスケベポリス先輩(主観)に転生して性欲が著しくバグったりなどしましたが、最後まで継承というテーマを貫きながらそこにいた彼らの幸福を願う祈りを感じる良い最終回だったなぁと思います。

死者の転生エンドは好みが分かれるところでしょうが、最終回の彼らは記憶も地続きでなければ生まれも育ちも名前も時代も違う同じ魂の別人だけれど同時に「生まれ変わって幸せに暮らしているんだと信じたい」という願いを肯定する存在でもあるし、そこが俺は好きなんだよね〜という話は特に本題には関係がない。





話はガラリと変わりまして、俺のほめて箱(名ばかり)に先日こういった投稿がありました。

どうと言われましても。とは思ったんですが、上記のとおり「悪い鬼という言葉をどう思うか?」という意味であろうという予測のもと、それについては俺はこう思うよ〜という話をこの後したんですね。「そこ、そんな引っかかるポイントだろうか?」と首を捻りつつ。
しかし、思えばこの「悪い鬼」というワードに対してかなり過敏な反応をしている人を俺はそれなりにツイッターランド見かけたことがあったなあ〜!?と。

なので、いい機会だし「何故そのような反応があるのか」「自分は何故そう思わないのか」「そもそも悪い鬼とは一体なんなのか」など自分の中の考えを纏める体で「悪い鬼」について考えてみよう!というのが今回の趣旨となります。キャラクターや作品、作者をあまり悪し様に罵りでもしない限りは「自分にとっては違和感があるな」とか「私は好きではないな」とかそういうあまり肯定的でない感想を持っていてもいいと思うんですが(持ってていいというか、俺にそんなことを強要する権限はないわけだが)、一つの見方の参考にでもなれば幸い。



●そもそも『鬼滅の刃』における鬼とは何なのか

さて、悪い鬼という言葉に対して過敏に反応する人たちについてですが、俺は先に言ったとおり全く感覚的に理解できないので当事者の方々の発言から一考してみようと思います。たくさん見かけたとは言いましたが総合的にあまり良い記憶ではなかったし、改めて検索するのはちょっと自分の精神衛生上よろしくないので、出来る限り記憶から掘り起こしてみました。

「炭治郎の、鬼滅という物語の持っていた鬼に対する慈しさが感じられない。人間の中にも残酷な者は多くいるのに、なぜ鬼だけが滅ぼされなければならなかったのか。鬼が救いようのない生き物と断じられ、顧みられることなく滅ぼされたのが残酷に感じる。」

端的に纏めるならば、このような内容だったと記憶しています。

こういった意見を見るに、鬼という存在そのものに救済を求めていた、手を差し伸べられることを期待していた読者層が違和感、不快感を覚えている、と考えるのが自然でしょうか。まあ特に週刊連載だと自分の思っていたとおりの展開にならなかった、なんてあるあるだからな。
また、これは憶測ですが「悪い鬼」という言葉の持つ力がシンプルかつ強いのも一因ではないか、と愚考します。これは「悪い鬼」に限った話ではないのだけれど、鬼滅という作品は作品通して言葉の力がいちいち強いので、そこ単体に引っ張られる人は存外に多いのではなかろうか。



上記の諸々について考える前に、まず鬼という生き物を見返してみましょう。

まず個々のキャラクターの主観をなるべく廃した、鬼滅における鬼という生物の生態を分かる範囲で書き出してみます。

・定期的に人間か獣の血肉を喰う必要がある(死体や獣でも代用はできるようだが、珠世様はなんとかそれで耐えたという様子だったので基本的には生きた人間の血肉を強く求めると思われる)(禰豆子は鬼としての資質が飛び抜けていたため例外的に何も喰わなくても生き存えられたが、その禰豆子にも飢餓の苦しみと食人衝動はあった)。

・本人の鬼としての資質やその時の状況にもよるが、鬼になりたての者は強い飢餓衝動に襲われ自らの家族に手をかけるケースが多い(禰豆子(未遂)、珠世、手鬼、母蜘蛛、不死川母など)。

・太陽光に当たるか頚を斬られるかしないと死なない強い不死性を持つ。頚の弱点を克服するケースもある。鬼としてずば抜けた資質を持つ者は太陽をも克服する(鬼舞辻無惨が求めていたのはそういう鬼である)。

・鬼となったことで人間の頃の記憶や意識が希薄になることも多い(これについては個体差が大きく、上位の鬼で比べてもほとんど何も覚えていなかった猗窩座とほとんどの起こったことを覚えていた黒死牟や童磨とがいた)。

・その思考、言動、生死は呪いを外さない限り全て鬼舞辻無惨に筒抜けである。一方で鬼舞辻無惨本人は鬼に対して呪いを外されていない限りは自由に干渉できる。鬼の生殺与奪の権は全て鬼舞辻無惨という男一人に委ねられている。

書こうと思えばもう少しいろいろ書けそうですが、主だったところではこんなものでしょうか。

ここで一つ問題提起があります。「鬼滅の刃は、鬼と人間という二つの種族間の戦いの物語なのか?」

少なくとも、俺にはそうは考えられません。

特定一個体にその他全てが支配され、思考は筒抜けなうえ生存の権さえも一方的に握られている生物種などいるでしょうか?(反語)その支配被支配の物理的繋がりは「無惨の呪い」と明言されてさえいるし。

「鬼は悲しい生き物」という言葉があるためにそのような文脈で読んでいる人が一定数いるのではないか?と思うのですが、あれは種族ではなく病理と捉えるのが自然ではないだろうか。
人為的バイオハザードのようなもの、と考えるとより正確かもしれない。彼ら鬼は例外なく「かつて人であったものが、鬼舞辻無惨によって変貌させられた」存在でしょう、それが合意か無理やりかは置いておいて。ゾンビに成り果ててしまった人間はそりゃあ悲しいよ(別にゾンビではないのだが、ものの喩えとしてはこちらの方がしっくりくるね、という話です)。

そう考えると「残酷な人間だってたくさんいたのに、何故鬼だけが?」にも自ずと答えは見えてくるのではないでしょうか。確かに残酷な人間は数多く存在するが、それが今まさに犠牲者を増やし続けるバイオハザードを止めない理由になるのか?という。そういった話は概ねそれがキャラクターそれぞれの物語に関わることもあるよというだけで、別問題ですよね。人間社会の問題は物語の本筋と関わりのない場所で社会が少しずつ改善していくべき話(そして実際に最終回の現代ではそのような世界になっている)。


言ってしまえば、たとえ誰の過去に何があろうが物語の本筋(人を害する存在である鬼を滅すこと、人として想いを継承し続けていくこと)にはほとんど全然関係がないのです。彼には彼女には昔そういうことがあったよ、その結果として今こうなっているよ、という事実でしかない。
妓夫太郎と梅が人間に虐げられていようが、狛治さんの過去が悲惨だろうが、継国兄弟の過去の話が濃密だろうが、そこから繋がるものや構造の妙、物語としての美しさや悲しさはあってもそれそのものは数多あるそれぞれの過去のひとつでありキャラクターの魅力、物語のエッセンスのひとつに過ぎない。

更に言うならば、もちろん積極的に加害者側に加わることは良しとされていないのですが、望まざるところから結果的に加害者側に転がることになるか否かという部分はかなり運が絡んでいます。炭治郎と禰豆子はそういう意味でとても運が良かった(家族を惨殺された子供たちに外野からお前たちは運が良かったとはあまり言いたくない気はするが、禰豆子も炭治郎も最後まで人を喰わず家族みんなで家に帰ることができたことを思うと比較的そう)(良かれの行動がすべて良い形で帰ってくるわけではない世界で、炭治郎たちのこれまでの行いが巡り巡ってあの結末に結びついたことを思うと、確かに彼らは客観的に見て相当運がいい部類だったように思う)。
まあ、運という部分に関しては人喰い鬼に転じるか否かという話以外にも各々の出生であり時代でありタイミングであり望むものを得られるかどうかというところ等にも広範囲でかかってくるポイントですが。

そして、鬼という存在はそういうどうしようもない部分に多大な悪影響を与える。鬼がいなければ竈門家は平穏に日々を過ごしていた。冨岡さんや胡蝶姉妹もそうだし、村田さんなんかもそう。時透兄弟の生活は厳しくともあんなふうに奪われることはなかったし、不死川家もようやく手に入れた平穏な暮らしを守っていただろう。悲鳴嶼さんも猜疑心なんて抱かずに子供たちと暮らしていた。縁壱はうたと子供と一緒に恙なく暮らしたであろうし、巌勝も縁壱に再会することなく武家として名を上げていただろう(退屈な日々とは言っていたが、わざわざ回顧している上に捨てたことについても唯一言及しているのでそれなりに価値のある日々だったのではと想像できる)。狛治さんもあれ以上無為な罪と犠牲を積み重ねながら虚無の道を歩くことはなかった。獪岳だってあのあと寺に帰って向き合い話し合う機会を得られたかもしれない(それでどうなるという訳でもないかもしれないが、少なくともあんな死に方をすることはなかっただろう)。累も両親をその手にかけることはなかった。母蜘蛛や手鬼だって家族と幸せに暮らしていたかもしれない。
中には鬼殺隊の中で自分の居場所を得られた善逸やカナヲに宇髄さんと甘露寺もいるし、鬼である童磨に一時匿われたことで結果的に生き延びた伊之助がいるし、何なら鬼がいなければ生まれてこなかった伊黒さんがいるし、鬼であることを肯定し楽しんでいた魘夢や妓夫太郎と梅の兄妹、鬼になったことで望んだものを得た童磨もいるけれど、善逸もカナヲも鬼に大切な爺ちゃんや姉さんたちを奪われているし、宇髄さんも甘露寺も鬼に奪われる人々を憂い奪う者に怒っていますよね。伊之助も母を殺された。伊黒さんも自分の出自と、そこから逃れるためにしたことをずっと抱え続けていた。魘夢がどれほどの人間を苦しめたか。兄妹や童磨が、誰を虐げたわけでもない罪のない人間をどれだけ殺めたか。
ここで総合的に否定されるべきは鬼というそれぞれの一個体ではなく、そういった悲劇を数多作り上げる元凶となった鬼という現象そのものなわけです。彼ら個々人が鬼として犯した罪は雪がれるはずもないけれど(そこに関しては一貫してシビア)、鬼になったこと自体は悲しいことなので。鬼になる意味を知りながら合意で鬼になった人間たちにしても、そもそも鬼がいなければそんな選択を取ることはなかったわけですからね。


●だが、ここに例外が存在する

題目のとおり、この話には例外があります。鬼舞辻無惨その人(鬼)です。故意にバイオハザードを引き起こしてる張本人なのでそりゃそう。しかも本人は悪意どころか自分が悪いことをしているという認識すらないときたもんだ。


最早書くまでもないかなと思ったんですが、鬼にとっての鬼舞辻無惨というものを一応これも分かる範囲で書き出しておきます。

・鬼舞辻無惨は直接勧誘することも多いが、通りすがりの人間を通り魔的に襲って鬼にすることも少なくない(浅草の人、不死川母、猗窩座)。また、鬼の生態を正確に伝えない詐欺紛いの勧誘もしている(珠世)。

・鬼舞辻無惨の機嫌一つで物理的に首が飛ぶ。基本的に何を選んでも首が飛ぶ。

・お気に入りだろうが貢献度が高かろうが、役に立たなければ即時切り捨てる。

・生きるために人間を喰らう必要はあるが、生きるためだけなら鬼を生み出す必要性はない。

・鬼舞辻無惨本人(鬼)はそんな配下の鬼を「増やしたくもない」と断言している。

・鬼舞辻無惨の目的はあくまで「青い彼岸花を見つける、ないし太陽を克服する鬼を見つけて自分が太陽を克服する」という一点であるため、おそらく病弱な子供だろうが、人間に虐げられた者だろうが、剣を極めるために永遠の時間を求めていようが、仮に太陽を克服しでもしたらその瞬間喰われる

いや〜〜〜〜最悪だな…………………………(しみじみ)

これで悲しい過去のひとつでもあればまだマシなものを(過去のできごとで罪は何一つ雪がれませんが)、献身的に看病してくれた医者を病床にわざわざ鉈まで持ち込んで計画的殺人を実行してるんだから筋金入りの最悪。同情要素が「かつてはとても病弱だった」くらいしかない。あそこまで突き抜けていると見てて元気になれるレベル。


鬼舞辻無惨というキャラクターの造形は、極めてシンプルで一貫しています。
全ての価値観の中心は自分。価値基準は自分にとって都合がいいか悪いか、快か不快か、使えるか無能か。そういう生き物。

鬼舞辻無惨がそこまで病弱でありながらあの年頃まで生き存えることができたのは、もちろん本人の意思も強いだろうが何よりもあの医者をはじめとした周囲の献身と努力あってこそというのは想像に難くありません。
炭治郎が猗窩座に対して語った言葉で「生まれた時は誰もが弱い赤子、誰かに助けて貰わなきゃ生きられない」という旨の話がありましたが、まあこれに関しては別にあの世界の真理でもなんでもないんですけれども(カナヲや妓夫太郎のような例があるし)、少なくとも鬼舞辻無惨はその類だったのではないだろうか。

けれど無惨は「全て自分の力でなんとかしてきた」と言う。何故か?

それは自分以外の人間の一個体としての価値を基本的に認めていないからに他ならない。元々が貴族だし、自分に充てがわれる医療も環境も自分という人間の価値に付随するものでしかなかった。それが十全に機能しなかったため怒って排除した。そう考えると自然です。

また、鬼舞辻無惨はたいへん外面がよい。隠れ蓑となる人間の家族たちからは慕われ、一部の鬼も彼に心酔している。こういう側面は本人にとって「自らの力でなんとかしてきた」部分なのだろう、彼らの力を借りるだとかそういう発想は一切ない。


そんな鬼舞辻無惨なので、人を喰らわねば生きられない鬼となってもそこは全く気にしてないんですよね。ただ一点、太陽の下に出られないという不完全さ、不自由さに腹を立てている。そして、それを克服するために何を踏み躙ろうが知ったことではない。だから怨まれ続け、憎まれ続け、人の怒りと願いに殺された。そんな生き物。ある意味天災と言っても差し支えはないのかもしれません(人災です)(天災ヅラをするな)。天災が殺せるもんなら殺すに決まってんだよなあ……

その自分をたった一人で自分を完全に降し追い詰めた縁壱には強い忌避感を抱き化け物と呼ぶ。そしてそんな自分を見事倒し切った人間たちの継承の力を認め、土壇場で自分もそれを取り入れる。なんで変なところで思考が柔軟なんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(A.1000年も生きるには柔軟な視点を持つことが大切であるため)
まあ上記の価値観から繰り出された継承()なので炭治郎にベットリへばりついた挙句にこっぴどくサヨナラされるわけだが……

やたらと筆が乗って鬼舞辻無惨について長々と書いてしまいましたが、さて果たして鬼舞辻無惨もまた悲しい生き物なのか。
否。何故なら鬼舞辻無惨こそが鬼にまつわる全ての悲劇の元凶であり、鬼という病理を不特定多数に撒き散らす病巣であり、鬼殺隊が真に殺さなければならない鬼なのだから。鬼舞辻無惨が生み出した鬼たちが「悲しい生き物」とするならば、鬼舞辻無惨は作中炭治郎が言っていたとおり「存在してはいけない生き物」だろう。鬼舞辻無惨とその他の鬼ではその前提が大いに異なる、ということを事前にこうしてはっきりさせておきたい。


●で、「悪い鬼」って何なんです?

前提事項を確認したところで、もう一度「悪い鬼」の話に立ち戻ってみましょう。


まず「悪い鬼」という言葉そのものについて。この言葉、あの最終盤で初めて出てきた言葉だったでしょうか。

違います。柱合裁判の時点で炭治郎本人が思いっきり言ってます。何なら柱の刀には遥か昔から惡鬼滅殺って書いてます。

そも、禰豆子や愈史郎という例外が現れるまではわざわざ悪い〜なんて形容詞を付けずとも全ての鬼は「悪い鬼」だったんです。だから裁判があそこまで紛糾したし、姉のことがあるしのぶさんやあの中では境遇や性格的に中立の目線を取れる甘露寺、そもそも裁判に積極的に参加していない無一郎以外の殆どの柱が炭治郎を処罰し禰豆子を殺すことを進言した。その場で殺る気満々だった者さえ複数人いた。だって相手は鬼なのだから。

鬼は鬼であるというその時点で、人間を喰らい害することを生態として組み込まれている。たとえ鬼になるより以前がどのような人間であったとして、そう成り果てた時点で凡ゆる人にとってそれはもう「悪い鬼」でしょう。そこに関してはずっと一貫しているように思う。


一方で、鬼の禰豆子が生まれたことで「善良な鬼」というかつてなかった概念が誕生した。
禰豆子は、もとの素質もあるしたまたま冨岡さんが通りがかったのもあるし遊郭のときなんかは危うかったしでかなり運ゲーな部分は大きいけれど結果的に誰一人喰らうことなく人を守るために戦う鬼として在り続けた稀有な存在です。炭治郎が初めて遭遇した鬼というのはその禰豆子だった。

もうひとつ、炭治郎は珠世様と愈史郎という例外も知っている。
珠世様はかつては自棄になって大勢殺した「悪い鬼」だったけれど今はその罪を償うためにもと鬼舞辻無惨打倒のための研究を続けているし(「かつて悪い鬼だったひと」とでも言うか)(しかし悪い鬼だった事実は消えないのできっちり地獄に堕ちます)、その珠世様の生み出した唯一の鬼である愈史郎は誰一人殺さず常に正気を保ち最終決戦にも多大な貢献を遂げた正真正銘の「善良な鬼」です。

なので、そういう経緯もあっておそらく炭治郎の中には「善良な鬼」と「悪い鬼」というきっぱりとした区分がある。これは本人の性質がどうとかではなく、実際の行いによってジャッジされるものですね。騙されようが、人を害することを望んでいようが、通りすがりに鬼にされていようが、道を極めることを求めようが、何もかも失った放浪の果てであろうが、人を殺し喰らい続けてる時点で「悪い鬼」なわけで。


そして全ての戦いが終わったあと、鬼舞辻無惨と配下の鬼は全滅した。禰豆子は人間に戻った。そして、人のために戦った「善良な鬼」である愈史郎は鬼として生き続ける。文字通り「悪い鬼がいない世界になった」んですよね。

この言葉に鬼という生き物への悪意、侮辱といった意図は含まれません。純然たる事実しかない。

先述した通り、鬼とはそもそも病理に近い事象であるわけです。鬼になった人間も、その鬼に害された人間も、鬼という病理に侵された被害者と言える。「悪い鬼がいなくなった」を分かりやすく言い換えるとしたら「多くの人を蝕んでいた病が根絶された。多くの犠牲を払ってしまったけれど、もうあの病による犠牲者は出ない」くらいのニュアンスになるのではないか、と思います。滅ぼされた種族ではなく根絶された病魔なんかに近いんですよね、鬼。


●「悪い鬼」は決して悪意的な言葉ではない

もう一つ、この話をする上で声を大にして主張したいことがあります。「悪い鬼」は人間の成れの果てであるけれど、「悪い鬼」を否定することはかつて人間だった彼らを否定することにはならない、ということです。


先ほど言ったとおり、そこに至る経緯が何であれどうであれ人を害した時点でみんな平等に悪い鬼なわけです。それは即ち、かつて人だった頃の想いや行動は鬼として断じられる時点では関係のない話であり、そこに貴賤や優劣などないということに他ならない。
「悪い鬼」という言葉は、ある意味かつて人として在った彼彼女の人としての人生、そこにあった想いや選択と、鬼として犯した罪とを切り分ける言葉と言えるでしょう。もちろん鬼が人の成れの果てである以上は地続きの存在ではあるのですが、だからこそ人であった頃の彼ら彼女らが否定されてはならない。作中ではずっとそのように描かれているように思う。半天狗なんか人間として犯した罪は人界で裁きを受けてますし(そこから更に逃げ出してああなったが)、黒死牟に至っては継国巌勝としての記憶も感情も選択もその結末も本人の中にしか存在しないという徹底ぶりだったし。それぞれの経緯を読んだ読者がどんな感想を抱くのかはさておき。

このあたりは柱合裁判で一番ブチのギーレェで殺意ナンバーワンだった人が初めて遭遇し、初めて殺した鬼が最愛の実の母であるあたりからも見て取れますね。刀に彫られた惡鬼滅殺では飽き足らず羽織でまで鬼に対する殺意を表明していても、鬼になった母親本人のことは何一つ怨んでも憎んでもいない。鬼であった禰豆子を肯定した炭治郎とは本編中ずっと和解の描写もなければ会話さえないけれど、かつて鬼であった人間の禰豆子に対しての態度は温和で優しい。徹底して鬼という存在をのみ否定している。何なら地獄の淵で母が泣いているならお袋背負って地獄を歩くよとまで言うので……綺麗な笑顔でその手をとるので……ア〜〜〜すっごい綺麗……ほんとに綺麗……世界一綺麗だよ……(感情)


思えば、炭治郎はずっとそこをしっかりと切り分けて考えていました。鬼としてしたことは絶対に許さない、必ず頚を斬る。けれどその最期にどうしようもない悲しみがあれば、そこに寄り添おう。そういうスタンスを最初から最後まで貫いていた。悲しみを感知できるのは炭治郎の固有スキルですが、それを感じ取って実際に悲しみ寄り添おうとするのは炭治郎本人の深い慈しさを感じさせますね。

逆に言えば人間の頃から同情の余地なんて欠片もなかったであろう下衆野郎に対しては最初から最後までずっと殺意全開なんですよね、それこそ最序盤の沼鬼の頃から。慈しいけれど、無条件に誰に対しても慈しいわけではない。人を害する鬼に容赦はしないし、大切なものを傷つけた相手に対しても食ってかかる。でも、それはそれときっちり分けて考え行動できる。そうしようと考えていても実際に完璧に分けるというのは大変難しいので、これは炭治郎の得難いところのひとつだなぁと思う。
更に言うなら炭治郎は別に相手を救いたいなど思っているわけではない。ただ悲しいからせめてそれは蔑ろにしたくない寄り添いたいと思っているに過ぎず、先述した沼鬼や半天狗の例があるように全ての鬼に対してそれを行なっているわけでもない。炭治郎のそういう側面に勝手に救われていた鬼が多いというだけ。響凱や猗窩座の最期などで特に顕著に感じられますね。炭治郎がやりたくてやったことに彼らが勝手に納得して感謝したに過ぎないんですよ、あれ。


なので、あの最後の言葉選びひとつでそれが損なわれたことは無かったろう、と俺は思う。炭治郎の中にはずっと人を害する鬼は許せないという固い意志と鬼そのものは悲しい生き物だという想いが矛盾することなく両立していたはずです(とは言っても人間の頃から下衆だったような奴に見せる慈しさなどない)。ただし無惨は除く。


●ただし無惨テメーはダメだ

既に語ったように、同じ「悪い鬼」でも鬼舞辻無惨とその他では少し前提が異なります。


数多の鬼の中で無惨だけは純然たる加害者で、発端で、元凶でした。沼鬼や半天狗の時だって同情の余地が皆無であるが故に終始殺意を向けていたのに、鬼舞辻無惨に対してだけ慈悲をかけるなんてことが通るだろうか。

そんな筈はない。家族を殺され、妹を鬼にされ、大切なものを奪われた側の人間たちが、自分一人の願いのために数多の人間の人生を平然と踏み躙ってきた存在に対して情けをかける理由なんてない。何より放置したら更に多くの人命が無為に損なわれるのだから、そりゃ一点の曇りもない殺意で殺しますよね。まともな対話が不可能なことは無限城ファーストコンタクトで嫌というほど理解させられますし。しつこい(第一声)


無惨を倒す過程には奪われた者の怒りがあります。奪った者への憎しみがあります。けれど、それ以上に彼らはみな「これ以上奪わせない、もう誰にもこんな思いはさせない」という想いで戦っていることは少し読めば明らかでしょう。それが彼らの慈しさでないのならば、なんなのか。え?サイコロステーキ先輩?さあ…………なんだったんだあいつ…………


●薬について(8/28追記)

本筋にはあまり関係ないんですが、ノイズを除去しておくためにも一応は言及するべきかな、と思ったので今更追記です。鬼滅という作品の中の薬というものについて。

鬼舞辻無惨という存在が生まれてしまったのは、平安時代の善良な医者が調合した薬が直接的な原因でしたね。善良故に余命幾許もない鬼舞辻無惨を少しでも生き存えさせようと腐心した結果なので、良かれの行動が最悪の結果を齎した作中最大の例と言えるかもしれぬ。その生態を良しとして必要もない犠牲を振り撒いたのは鬼舞辻無惨なので、誰が悪いかと言われれば鬼舞辻無惨が1000%悪いが……
そして皮肉にもと言うべきか、その鬼舞辻無惨を倒すに至った最大の功労者の一人である珠世様の切り札もまた薬でした。無惨との最終決戦、まさに総力戦でしたよね。必殺の技も何もない、圧倒的な相手に対してそれぞれが文字通り必死に泥臭いまでにできることをやった結果やっと掴んだ勝利でした。珠世様の薬もそのうちの一つに過ぎないんですが、他と比較してインパクトがでかい+薬効的にご都合主義に見られがちというところがあるのでしょうか(んなこと言ったらこの世に存在する漫画の大半はご都合主義で生み出されていると思うが)ネガティブな言及が多かった気はします。最終決戦が爽快感もクソもねえ泥試合なのはまあそう、何せ相手がスペックだけは一線を画している上に遊びもプライドもない鬼舞辻無惨なのでそうならざるを得ないからな……
そのあたりの感想の話はさておき、薬関連で上がっていた話題をさくさく潰していきます。


・効果がご都合主義すぎる

そんなこと言ってたらこの世の漫画の大半はご都合主義だろ、とはさっきの話の中で言っていたことですが、これで投げるのも乱暴かと思うので一応きっちり言及しておく。
効果がご都合主義、確かにそうかもしれませんね。しかし偶々そういう結果になった、というわけでもない。
珠世様の薬は「鬼を人間に戻す」「老化」「分裂阻害」「細胞破壊」この四つでした。このうち人間に戻す薬は分解されたので(分解するのに時間と体力を浪費させているのと、他の薬のカモフラージュという役割も果たしたから無意味ではないのだが)実際に薬効があったのは残りの三つですね。鬼舞辻無惨くんいちまんさい。

分裂阻害については言わずもがな、生き恥ポップコーンを生で見ていた張本人なのだから真っ先に対策を打つに決まっているだろという話なので他の三つの話をします。

珠世様の話です。珠世様は500年ほど、あるいはもっと長い間かもしれない、それほどの長い間ずっと自分を騙した鬼舞辻無惨に対して尋常でない怒りと殺意を向けていました。そのせいで最愛の夫と子供を自らの手にかける羽目になったのだからそりゃそうだよな、そんな奴に逆らうこともできずに侍らされてたわけだし。鬼を人間に戻す薬、というのは文字通りの話ですが、縁壱とのやりとりや無限城での戦いが始まる直前のやりとりを見るに「鬼舞辻無惨を倒すための切り札」の一つとしての意味合いも含まれていたのではないかという想像がつきます。「こちらが敵わないのならば、そちらを弱らせてやればいい」というのが珠世様の考え方でしたから、細胞破壊や老化なども研究の過程で生まれたものでしょう。採用されたのがその二つというだけで、他にも色々あったのかもしれない。
鬼を人間に戻す薬に関しては、実際にそれで人間に戻った浅草の人や竈門兄妹がいるので本来の用途はそこにあるはずなんですが、鬼舞辻無惨を倒すための研究の一つという意味では老化、細胞破壊と同様の用途と言えるかもしれません。これが500年モノの殺意だぞ!

そして、あれだけ周到な殺意の影にはもう一人ぶんの意思が隠れています。しのぶさんです。
しのぶさんはあの時点で既に自身の身体を毒漬けにして姉の仇との戦いに備えていた人でした。自分の身体を犠牲にした特攻と、本命は隠しておいて後からじわじわと効いてくる毒/薬という構図、いいよね……という個人の感想はともかく、あの二人が殺すべき相手を確実に殺すために協力して策を練っていたのは確かでしょう。少なくとも老化はしのぶさんの案だし、そのしのぶさんもあの策が成功したのは珠世さんの協力あってこそと言ってますし。上弦の弐にしろ鬼舞辻無惨にしろ強敵です、どれだけ念を入れても足りないほどの相手にそれぞれ挑むわけですから切り札は強力なものが多いほどいいに決まっている。そしてそれを悟られない策も必要になってくる。

こういったことを考慮すれば、あのお薬四連弾は「長年の執念と強い殺意のもと、確実に相手を殺すために示し合わされたもの」と言えるでしょう。剣技や毒と同様、人の意思の結実ですよね。後出し的に出てきたのは確かですが、そう考えると特に不自然な話ではないのではないでしょうか。というか情報の後出しというなら全集中・常中も痣も透明な世界も赫刀も、何なら鬼滅という作品通じてそうだったしムキムキねずみとかどうなるんだよ!ムキムキねずみだぞ!そのリアルタイム性も鬼滅の魅力のひとつだと俺は思っていますが、そこを批判するとしてそれならもっと以前の段階で言及してないとおかしいよね。これに限った話ではないが。

あとこれは薬云々とは全く関係ない個人の感想なんですが、しのぶさんと珠世様との間の関係性は「鬼を殺す」という点で共通しているにも関わらず互いの夢の一端であるのがとても良いですよね。しのぶさんは炭治郎に「鬼と仲良く」の想いを託し、実際に炭治郎には禰豆子がいて珠世様がいて愈史郎がいたので託した願いは叶えられたと言えるだろうが、しのぶさん本人も複雑な顔をしながらも禰豆子に歩み寄ったり珠世様を「あの人はすごい人」と認めているので彼女自身も本懐を果たしている。珠世様は、炭治郎以外にも鬼である自分を一人の人間として認める相手と巡り合っている。行き着く先は全くの逆方向ながら目的と殺意で通じ合い認め合った二人で、好きだな〜(感情)


・炭治郎が「薬ができれば〜」と言っていた件

これに関してですが、思うにあれは禰豆子だけでなくあの浅草の人のような被害者を減らせることに希望を持つ炭治郎と、そんな炭治郎の心に触れる珠世様という双方の交流が展開されているという話であってあの場で語られたことは彼らの最終目標でも何でもありません。もちろん目標の一つではありますが、「薬ができればもっと多くの人を助けられますよね!」というのは文字通りの意味でしかないし、そんな珠世様の研究に協力する意思を固めたに過ぎない。あの時点では炭治郎はまだ鬼のことにも隊のことにも無知で、今後の展望なんて有って無いようなものですし。
そもそも何故そんな薬が必要なのかと言えばこの世界に鬼なんてものが存在しているからで、首魁を倒せば鬼がこの世からいなくなるなら真っ先にそうするに決まってるんですよ。最も優先される目的は最初からそこです、今まではそれが叶わなかっただけで。もちろん薬が完成したタイミングというのもありますが、相手のほとんどは既に人間を喰い殺していて向こうから襲ってくるのだから薬が完成していれば全てが解決していたなんてうまい話では無いわけだし。
あと、実際にその薬によって助かった人間はのべ三人ほど存在しますからね。炭治郎が人のためにやってきたことが炭治郎本人に帰ってくるというのは綺麗な流れだな、と思います。

・薬に頼りすぎでは?薬さえあれば全部解決したのでは?

果たしてそうでしょうか?確かに重要なファクターの一つであったことは事実ですが、薬さえあれば全部解決!という話では決してなかったはずです。薬で弱らせたのは珠世様だけれど、「まともに戦える程度に相手を弱体化させるため」に弱らせていたので実際に現場で戦う隊士たちの存在ありきの戦法ですよね。薬だけで倒せるような相手ならあんな苦労しねえ。
珠世様がしのぶさんとの協力のもと無惨を弱らせ、柱や同期たちが戦い、一般隊士や隠たちが戦う彼らをサポートし無惨を妨害し、縁壱がつけた古傷も手伝い、という文字通りの総力戦なんですよ、あれ。彼らが戦ってなければ分裂阻害も細胞破壊も意味を成さないものだったし。

それと、詳しくは後述しますが薬自体が運良く生まれた産物なのでそういう意味でも「薬さえあれば全て解決した」というのは的外れな意見のように思えます。薬があったからこんなことになった、というならある意味そうかもしれませんけどね。無惨!お前が千年かけて探した青い彼岸花ぜんぶ枯れたぜ!

・最初から薬の開発に注力していればよかったのでは?

これは冷静に読めばわかると思うんですが、100%無理です。断言しますが無理です。

まず、鬼殺隊というものが最終的に鬼舞辻無惨を倒すため産屋敷一族によって作られた組織というのは作中語られていましたね。集まってきた隊士たちも当然(兄上や獪岳、あとサイコロステーキ先輩のような極端な例外を除けば)その殆どは鬼を討つ動機のある人間たちです。既に何度か述べましたが、彼らの最終目的は最初から「鬼の根絶」で一貫しています。だって鬼という存在さえいなくなれば、これから鬼にされる人間も含めた「鬼の被害者」もこの世からいなくなるわけですから。鬼はどんどん増えていくのに、鬼にされた人間をいちいち治すなんてまどろっこしい方法に行き着くわけがない。鬼を殺す技術に特化していくのは当然の帰結なわけですね。そんな選択ができたのは珠世様一人だけです。研究するための膨大な時間があり、敵のことを知っていて、何より彼女自身がその鬼ですから。その珠世様でさえ、研究があれほど大幅に進んだのは炭治郎と出会って協力関係となってからでした。
そして、鬼殺隊の長い歴史の中で初めて「鬼を殺す毒」を開発したのがしのぶさんです。鬼の頚を斬れない隊士なんて普通は選別の時点で篩い落とされるか途中脱落するかの二択だろうし、あのタイミングで彼女の存在があったのはまさに時の運ですよね。しのぶさんの薬学知識と、頚を斬れる力がなくとも鬼を殺そうとする強い意思の賜物と言えるでしょう。
鬼を人間に戻す薬が完成の日の目を見たのは、そんな二人が引き合わされて共同研究者になってからの話です。更に言えば、この二人が引き合わされたのだって縁壱が彼女と邂逅し、想いを託し、それら全てを上に報告していなければ、或いは冨岡さんが炭治郎の嘆願を聞き届けることなく禰豆子を始末していたならあり得なかった話なわけで、これだけの偶然とそれまでの研鑽と強い意思があって生まれた、奇跡のような産物なんですね。

あの薬は珠世様の数百年に渡る研究の成果に加えて炭治郎という協力者と炭治郎が集めた上弦の血、その炭治郎がすんでのところで止めた浅草の人、そしてしのぶさんという共同研究者がいて初めて完成された代物です。それを「最初から薬の研究をしておけば」というのは、はっきり言ってよほど解像度の低いメタ視点でなければ出てこない詭弁と言わざるをえないでしょう。


●まとめ

以上、たいへん長くなりました。
炭治郎の、鬼滅という物語の慈しさは何一つ損なわれていない。人間の中に残酷な者が多くいるという事実は物語の本筋に何ら関係がない。鬼は悲しい生き物だけれど、人としての彼らの生は決して侮辱されない。あくまでも自分にとっては、鬼滅の刃はずっとそういう作品でした。という再確認をした。
ここまで読んだ人がいるのかどうかちょっと怪しいんですが、何らかの一助になればよいなと思う。





ところでこれを書く過程で柱合裁判あたり読み返してたんですけど、裁判の頃の風柱のビジュアルなんか白面の者の擬人化っぽくてかわいくないですか?かわいいね❤️



●最終回と鬼滅における地獄について(7/30追記)

ありがたいことにいくつか好意的な感想を頂きまして、ありがたいなと思いました(進次郎構文)

その中の一つに、最終回についての意見を求める旨のものがあったのでとりあえずリンクを貼ります。
こちらです。

なるほどな〜。

この話についてはTwitterで語ろうかなとも思ったんですが、ちょうどこの記事の最初で最終回についての話もしてたことだし折角なので長々語ろうと思ってこうして追記に至っているわけです。興味のある方はお付き合いください。





まず何故鬼が最終回にいないかといえば、単純に「一度は地獄へ落ちた人間とそうでない人間の魂が同時期に巡るわけがないので……」って話だと思います。それをしてしまうと、鬼の罪も鬼に奪われた者たちの嘆きも蔑ろになってしまうからね。

もうひとつ、これは作劇上の話ですが。鬼滅の刃は多くの人間のそれぞれの人生を描いている、ある種の群像劇的なところはあるのですけれども、それでもあの物語の主人公はあくまで炭治郎たちなので「悪い鬼がいなくなった後の平和な世界、継承の先にあるもの」を描くなら炭治郎にまつわるものを描くことになるんですよね。悪い鬼のいない世界のために戦ったのは彼らなので。

なのであの最終回、鬼が一纏めに「物語に必要なかった、彼らはあの世界に要らなかった」と断じられているわけではなく、あくまでこの物語の最後で語られるべきはこれですよ、ということではないでしょうか。
単純な話で、劇中でそれを描くと物語として冗長になってしまうんですよね。鬼滅はそのあたりの取捨選択にかなり気を使っている印象があるので(でなきゃ狛治さんの話も継国の話もコソコソであんなに溢れないし)。


でも好きなキャラクター達について語られないのが寂しい、悲しいという気持ちは普遍的なものだし理解もできるので、その感情が呪いに転じない限りは大切にしてほしい。それは「好き」という純粋な感情なので……





ところで、そもそも地獄へ落ちた人間の魂は巡るんでしょうか?

これについては作中にこれ!という明確なアンサーが存在しません。ただ天国と地獄はあって、人を殺すと本人の意思に関係なく地獄行きで、本編時系列前後で子を成すこともなく天国に向かったであろう人間は最終回あたりで魂が巡ってますね、ということしか分からない。




なので、ここから先の話は個人の憶測或いは希望的観測となります。




まず、地獄とは何ぞや?

現実でもいろいろな定義、いろいろな地獄がありますが、鬼滅の世界では罪人が堕ち、罪に対する罰として炎に焼かれる場所という至ってシンプルな世界として描かれています。現実世界のこれこれこういう地獄!というのは参考程度以上に考えないほうがいいでしょう。あれはもっとプリミティブなもののように思える。


少し話を変えます。あの世界って神様仏様いるんでしょうか。

これも明確な答えは出ないが、俺は「そのようなものは存在はする。けれど、存在するだけ」と認識しています。
更に具体的に言うならば、世界がそのように在ることを後押しされてはいる、といったところでしょうか。神様はいる、は便宜的な言い方ですが、霊的なものは実際「ある」んですよ。霊験あらたかな場所、みたいなものもある。そうでなければ錆兎や真菰との修業シーンの説明がつかないし、今を生きる彼らに語りかけてきた霊魂たちの説明もつかない。炭十郎パッパなんか実際ナビゲートしてるし。反則技じゃない!?

あれに関しては「走馬灯のようなものでは」という一説もありましたが、俺はこの説の完全否定派であることを注釈しておきます。最初に錆兎たちを出しておいてそりゃないだろうと思うし、走馬灯でわざわざ糞親父と地獄へ強制ランデヴーする最愛の母を見せつけられるわけあるかバカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!感情が出たので太字になった。失敬。

話を戻します。
確かに「そういったもの」は存在するけれど、それが誰に対しても何もしてくれないこともこれでもかという程に証明されています。有一郎も風柱も神様仏様と祈っては叶わず泣いてます。どうして……………………………………(A.神様も仏様も何もしてくれないため)

じゃあ、神様も仏様も何もしてくれないのならどうしたらいいの?という問いに対するこの作品の解答ははっきりしています。
神も仏も何もしてくれないが、この世界には人間がいるぞ。
これです。

鬼滅はずっとそういう作品でした。この世界は残酷(第一話)であり、ただ祈っても何も変わらないしどうにもならない。ならばお前が決断しろ、他でもない、今ここに生きている人間であるお前が動け。生殺与奪の権を他人に握らせるな、と。
鬼舞辻無惨はそんな人間の連綿と連なる怒りによって追い詰められ滅び、「悪い鬼がいない世界」は鬼殺隊という人々によって成し遂げられた。ここに至るまでに天運が絡むことはあっても、基本的には彼らが実際にやってきたことが遂に実を結んだということに他なりません。鬼滅の刃は人間が繋いでいくものの物語なので。


天国と地獄の話に戻りましょう。

無惨以外の鬼の中で明確に天国、地獄について語っていた存在がいましたね。そう、童磨です。
童磨は人の感情がわからない(無くはないが、たいへんに希薄)生来の人でなしでした。そして聡い人間だった。それだけに、客観的に見た世界の仕組みにも気付いていた。即ち「神様なんていない、祈ったところでどうにもならない」という。
故に、極楽浄土へ向かうことを祈り、己を傷つけた罪人が地獄に堕ちることを願うしかできないような多くの無力な人間たちのことを憐れんでいました。

そして童磨は倒された。他でもない、人の想いに。

上記の講釈を垂れてる(と書くと悪意的だが、カナヲや伊之助にとってはそう)童磨に向かって伊之助が言い放った言葉を覚えているでしょうか。
「地獄がねえなら俺が作ってやらぁ!!!」
鬼滅の世界における地獄って、これじゃないかな?と思うのです。

あの世界に何かをしてくれる神様仏様はいない(そのような存在はいるだろうが、存在するだけ)と書きましたが、人の想いはそれなりに反映されます。現実に物理的に影響を及ぼすとしたらそれこそ錆兎や真菰の件くらいで、あとは語りかけるくらいしかできないけれど、それでも霊魂はある。これが何を意味するか?あの世界では人の想いはある程度形を成すんですよ。

現実世界に何か多大な影響があるわけではないが、人の願いは天国を形づくる。人の怒りが地獄を生む。
地獄はかなり描写が一辺倒な一方で、天国に関しては人によってかなり違うのも象徴的に思う。それは三途の川であり、花畑であり、銀杏の森であり、帰るべき家の形をしている。

だから童磨は、人の想いを知ったことで天国と地獄を知った。それが人の想いに直結する概念だからです。


ならば「今度生まれてくる時はこの人が鬼になんてなりませんように」という祈りが通じないことがあるだろうか(反語)


と、俺は思っているので、多くの鬼も禊を終えたら幾星霜を煌めく命の中に加わっていくんじゃないかなあ〜?っておもいます。おばみつが記憶もないのに来世チャンス成功したので狛恋もいけるんじゃない?いけるいけるオッケー👌でも鬼舞辻無惨は向こう1000年くらい地獄の釜の底から出てこないでほしい(個人の希望)


記事の冒頭でも書きましたが善照くんの言葉が象徴的ですよね。最終回で転生した面々って魂こそ同一でも記憶もなければ生まれも育ちも違う概ね別人なわけじゃないですか。彼ら自身が地続きでそうやって生きているわけじゃない。それでも善照くんは「みんな、きっと生まれ変わって幸せに暮らしてるんだ」と言う。そして、その祈りは肯定されている。俺は祈りの肯定が好きなのだ。


あとこれは与太話程度なんですが、「罪人が己の罪を炎で浄める」といえばプルガトリオ、煉獄じゃないですか。あの世界、そういう意味での煉獄なんて概念は見たところ存在しないけど「煉獄さん」はいますよね。
そして煉獄さんは限りある生を生きる人間たちの価値を語り、炭治郎たちを認め、人の想いの強さを解く。それは煉獄さんが死んでからもずっと物語の根幹に残り続けている。煉獄さん個人に限らず、煉獄家そのものが戦国時代から代々続く鬼狩りの家系であり、物理的にも精神的にも人の想いの継承というテーマを大きく担っている。
そんな彼、或いは彼らの名が「煉獄」であること、その刃で鬼を斬っていたこと、そしてその想いが炭治郎の刃にも乗っていることに意味を見出そうと思えば見出せるな〜とかなんとかかんとか。


あ、終わりです。

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