春は窮屈
しみったれた冬はお終い。寒がり、冷え性なので春の気配は喜ばしいこと。
なのだけど、冬には冬のよさはもちろんある。冬は「さむい、さむいっ」といってじっとしていられる。
啓蟄という言葉をご存知ですか?
(けいちつ)は、二十四節気の第3。二月節(旧暦1月後半から2月前半)。「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもある。
虫が蠢きだす。
ほら、また「蠢」これにも春。
凍える寒さからの解放。
日本人は、どらだけ春を切望してきたのか。
春は好きですよ。
桜も好き。
鳥が蜜をすって捨てた落ち花をひろってかえるくらいには好き。
さあ、虫たちだけでなく。
人も穏やかな陽気と、花散らしの雨なんぞでたやすく散ってしまう、儚くとも街を薄桃色に染めてしまえる花に誘われて、ほややんと春の陽気にあてられて、もぞもぞと心が蠢きだす。
さて、困ったものです。
ぼくは、いったい何をすればいいのか。
途方に暮れてしまう。
すべきことがあるような気がする。
いや、確実にある。
ぼくは、なによりも優先で生活を安定させなくてはならない。
そう、安定。
安定は、ずっと渇望していた。なーんにも難しいこと考えないで、ルーチンをこなすのは業種的には心がすり減ってしまったけれど。そして、折られる前に辞めると決心して実際そうしたのだけれど。
会社のルールに則っていれば、自然と社会のルールにうまく乗れるのです。
そこから離れたら、自己責任という名の権利が待っています。
「人が敷いたレールに乗るものか」とかね、アイデンティティの模索期間にあたる20代後半くらいまでだったかな。そんなこと思ったりもしたのだけど、超、楽よ。(心理学では各年代に、相応の課題が割り振られるといわれています)
間違っていてもいい。
私は、私の道をいく。
そう決心したのです。
でもね、最近はつかれてしまって。
エネルギーを使うことをしたくないのでしょうね。
要領よく、ラクに生きて、その分の余ったエネルギーで、日々を楽しく暮らしていきたい。と、まあジジババみたいな発想になりました。
だけど、根はラクをしたいので動きだしたくないのは本音。
だからさ、冬のいいところは「寒いから」という一言で、他人や自分自身を、しょうがないよね〜。だって冬だもん。
この一言で、納得せしめてしまう冬の存在感。
春がきました。
春がきてしまいました。
寒い寒いといえなくなりました。
寒いといえる嫌いな冬が、すでに懐かしくて、すこし羨ましい。
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ちょっくら、手術することになりました。