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MEMORIA メモリア                 〜壮大なるスピリットの旅〜

目に見えない波動としての「スピリット」から産まれる体験の事を「スピリチュアル」と言うならば、観る側の自由でどこまでもスピリチュアルな解釈が出来る映画なのではないかと思った。

まず、ジェシカの記憶はオーソブッコを食べる辺りから歪んでくる。
歯医者は亡くなってないし、スタジオに居たはずのエルナンは存在しない。
あの映像はジェシカの魂の記憶の映像であって、現実のものではない。  記憶は揺らぎ、薄れ、重なり合っていく。段々齟齬が出来、存在すら不確かになってくる。

観客が肉体を脱ぐスイッチはエルマノの昼寝(仮死)に設置してある。
仮死というのか幽体離脱というのか。
エルナンは夢を見ない。
彼の身体が眠っている間、スピリット(精神または魂と呼んでもいい)
は身体を離れ、戻る事で目が覚める。
つまり、エルナンは常にスピリットであるので次元の境界線が無い。
肉体の中に在りながら、常に意識はスピリットにある。
そこで起こった事、全ての波動を、「今」感じ取る事が出来、時空を超えて全てのスピリット、アカシックレコードと繋がる事が出来るのだ。

私達は肉体を着ている時に他の肉体を着ていた時の事(前世)を思い出すのが難しい。
しかし、呼び寄せられ近寄っていくというハプニングは度々起こっているように思う。
不自然に長椅子で閉じられた扉を開けると、そこは前世や来世、様々な時空に繋がっている。
そこで見せてもらった何千年も前の少女の抜殻もまた、ジェシカが着ていた肉体の残骸なのではないかと思った。

初めて会ったのに懐かしい感じがする人や土地の記憶を、私達はなんとなくやり過ごしている。
きっと全て魂にとっては初めての邂逅ではない。

私達の「自我」というのは殆ど肉体によって作られおり、性別や年齢や才能、それらに司られたものを「自分」だと思っているが、私達は「スピリット」であり、スピリットは肉体ではない。
肉体から解放され、スピリットになった時、私達の自我は消え去りあらゆる記号から自由になる。
瞑想というのはまさにその為に行うようなものだ。
ジェシカのアンテナと共に、私達も集合無意識、集合記憶体としての地球に繋がり、記憶の波動とただ同化していく。
地球もまた、物質そのものではなく連綿と続く私達の魂の記憶の集合体に過ぎないという量子物理学的なことを改めて考えさせられた。

エルナンというハードディスクと繋がってアンテナを立てている時、既にジェシカの肉体は死に及んでいる。彼が触れ合っていたのは、ジェシカのスピリットだ。

宇宙船は次元の境界線を越えていく。そういった宇宙の様々な境目を移動することを人はパラレル移動と言っているのかもしれない。

昔着ていた肉体に引き寄せられ、その肉体が朽ちた所でまた肉体を脱いでいく。様々なシンクロニシティを重ね合わせながら、様々な次元のレイヤーの上で私たちは魂の記憶と共に生きている。

彼女のスピリットが去った後、エルナンは彼女の死亡のアナウンスを聞く。
そして空には鳥の形の雲が。
魂が天に昇っていくように。


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