来年の桜

「今年の桜がだめなら来年の桜があろう」

祖母の言葉

もう何十年も前のこと。私は大丈夫といわれた大学に落ちた。何もする気にならず暇だったので、母について母方の祖母の見舞いにいった。腰を痛めて春先から寝ており、本人は桜の頃までに起きるといっているが、どうも無理そうだという。もじもじと顔を出した私に祖母は「あんたも今年の桜がだめなら来年の桜があろう」といった。このことばは以後おりにふれて心に浮かぶことになる。

桜のありがたみの一つは、一年単位でものを考えさせてくれるところである。年に一度しか咲かない花は珍しくないが、桜が、一年ということを、最も端的に感じさせてくれる花のひとつであることに異論はなかろう。あと三百六十五日といえば随分先のようだが、あと五十二回土曜日がくれば、と考えれば少し短い気がする。次の春がくれば、とか今度桜が咲く頃には、というとらえ方は、抽象的な、しかも決して近くはない先を、手の届きそうなところに持ってきてくれる。

たとえ一年より長くても、必ず来るものならいい。来るかどうかさえわからないものを待っていると、日差しが明るくなり、人生の階段を上る人があふれる、春という季節はことに辛い。花見に行きながら桜がまぶしくてうつむきたくなったりもする。そんな時には呪文のように、「来年の桜、来年の桜」と唱える。 (2017.3)

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