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20代最後の日に思うこと。

――今日で私の20代が終わるらしい。


同世代の友人たちの多くは、気づけば結婚・出産などライフイベントを経て、SNSに子どもの写真ばかり上げている。一方で、趣味に関する活動をしていると、出会うのは10代や20代前半の子が多くなった。

自分が10代、20代前半のときは「30歳って大人だし、落ち着いた社会人の先輩」と割と本気で思っていた。でも実際、今の自分はというと、仕事で何かあるたびに「は!?なにこの案件!最悪だー」「控えめに言って最低だわ」と文句を言いながら、わーわーと慌ただしくこなしている。(落ち着きとは常に無縁で、社内で走り回る私や、配線コードにつまずいて転ぶ私を見た者も多い。)

プライベートでは、とにかく物をなくしたり置き忘れたりする常連である。駅やショッピングモールでコウペンちゃん(私の大好きなペンギンのキャラクターである)のガチャガチャを見つければ「おっしゃ!」とほしいものが出るまで回すし、ソシャゲで推しがガチャにくればauかんたん決済のボタンを押し、指紋認証をし続ける。酒を飲めば楽しくなって歌い始め、この間は床を転がって「ゆか、つべたい」とその冷たさを堪能していた。

「30年近くも生きてきたのに、この人……中身がなくない?」と思われるのが怖い。そして、何か悩むことがあった際も「これだけ年を重ねてきたのに、こんなことで悩んでいるのか」と思われるのが恥ずかしい。だから20代半ばを過ぎてからは、年齢を聞かれることが何となく苦手だった。
でもどれだけ抗ったって結局、死なない限りは誰もが平等に年を重ねていく。だからそろそろ抗うのをやめて、自分が思う「年齢相応」にはなれなかった自分を受け入れる努力をすることにした。

幼少期に立てた未来計画では、私はスチュワーデスになって世界各国を駆け回り、20代半ばで結婚している予定だった。
高校生くらいになって思い描いていた未来は、ジャーナリストになって自身の言葉で多くの人を救い、今頃は書籍の1冊でも出版しているところだった。

私はスチュワーデスにも、ジャーナリストにもならなかった。
書籍は1冊も書き上げていないし、せいぜい自費出版で2冊ほど薄っぺらい本を出したくらいである。(イベントに出たが特に売れず、引っ越し時に在庫は破棄した。若気の至りだ。)
誰かを救えるわけでもない、大した力もないけれど、生活していくためにそこそこのお金をもらって、毎日なんとなく仕事をしながら過ごしている。描いていた未来からは、遠くかけ離れた場所にいる。

やりたいことと、向いていることは違うんだよ。

20代半ばから後半にかけて、仕事で出会った何人かからこの言葉をぶつけられた。最初は反発していたけれど、次第に自分の「やりたい」という気持ちすらよく見えなくなってきて、気づけば「自分にできること」「無理せずできること」を探すようになっていた時期もあった。

そうなってみて気づいたのは、仕事であれ趣味であれ「やりたい」と思えること自体がもはやすごいことなのだということ。日々に流されてしまえば「やりたい」が見えなくなる。自分が何をしたくて、どこに行きたくて、何を叶えたいのかを明確に持っていること自体、素晴らしいことだということに、ある日ふと思い至った。

みんながみんな「やりたい」を持っているわけではない。
そして「やりたい」を10人が「あなたには向いてない」と言ったとしても、自分がやっていて少しでも前向きな気持ちでいられるなら、それを好きだという気持ちを失わずにいられるのなら「やりたい」を貫くのも悪くないのではないだろうか。そもそも、向いているからやりたかったわけではないのだから。

向いていることをやらないといけない、って誰が決めたのか。
向いていることをやった方が楽だよ、評価されやすいよ、っていうだけで、向いていることだけをやっている人生が「楽しい」とは限らないと思うんだ。

「文章を書くことを仕事にしたい。自分の言葉で誰かを救いたい」
それが私の「やりたい」で、そのために何ができるかが自分の原動力だった。でも、自分の言葉を届ける方法は、文章を書くことだけではなかったし、文章を書くことと誰かを救うことはイコールではない。じゃあ文章を書くことをやめてみようと思っても、書かないでいると「書きたい」という気持ちがわいてくる。不思議なものだ。

「やりたい」を貫いたっていいじゃん。自分の人生なんだから。
それで誰かに迷惑をかけなければ、それでいいじゃん。

30歳の私には、そんな風に生きてほしいと思う。
誰かの「君には向いてないよ」というお節介な呪縛にも惑わされずに、「やりたい」と思うことに、全力で。それを見守ってくれる人、放っておいてくれる人は、必ずいるのだから。

「●●の方があってるよ」「××はあなたには向いてないよ」
そういう言葉に、今まではずっと引っ掛かってきた。もちろん、それらの言葉を参考にすることも、意見として聞き入れることも必要だ。でも、最終的には私をつくるのは誰かの言葉やレッテルじゃなく、自分自身の選択なのだ。

それは物事以外でもそうだ。
「女の子なんだからこうあるべき」「結婚して子供を育てるのが当たり前」「社会人として」「大人の女性として」「長女として」etc…
誰かが主観や偏見で考えた「こうあるべき」とか、「あなたは●●なんだから」とか、そういうレッテルに惑わされて生きるのはやめよう。

30を過ぎたって、SNSに子どもの写真を上げなくてもいいんだ。おしゃれなカフェの写真じゃなくて、ラーメンの写真ばかり上げてもいいんだ。ガチャガチャを延々と回したっていいし、大好きな唄を大声でうたったっていいんだ。落ち着いた人になんて、無理にならなくていいんだ。

もちろんTPOはわきまえる必要があるけれど。
やりたいことも、向いていることも、他人に決められるものじゃない。
誰かが決めた「年齢相応の大人」でなくてもいい。自分で選択できる人になろう。人の言葉に耳は傾けるけれど、依存しない人になろう。それが私のなりたい「30歳の私」だ。

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