【ラブライブ!】Aqours Finale LoveLive!に思うこと

なんか……考えようとしても頭が回らないから、文法とかレトリックとかを一切無視して書きたいと思う。え、いつもだろって?そうですね…

6月30日、Aqours9周年および10年目を記念する配信があった。
珍しく、9人揃っての配信。しかも生放送ではなかったので、何か特別な情報を出すのだろうとは思っていた。しかし…想像をはるかに上回る重要さだった。

Aqours……ついにフィナーレを迎えるのか!
まだいつになるかは分からないが、おそらく1年以内にはフィナーレライブを開催する。アーティストとしてのAqoursの一区切りである。
これを聞いた時、悲しいとか寂しいとかではなく、開いた口が塞がらなかった。衝撃が強すぎて、受け入れられなかったのだと思う。複雑な感情が駆け巡っていた。

ただ、補足しておくとフィナーレを迎えるのはあくまで「Aqoursのワンマンライブ」であり、活動休止するわけではない。ここはμ'sと異なる点である。沼津に行けばAqoursが待っているし、活動は続いていく。

そもそも、9人揃うことが極めてまれな状態が数年続いており、その間は個人活動も充実していた。新曲もポツポツ出していたが、明らかにラブライブ!の主導権は他のグループに譲っていたと思う。
このままオタクどもが「またデカい箱でライブやるでしょ」「野外ライブリベンジするでしょ」といった希望的観測を持ち続けるよりは、スパッと区切りをつけた方がよいかもしれない。

だから悲観することもないのかもしれないが……それはそれとして、ものすごくさみしい。いや、いまだにその喪失感の大きさに気づいていないかもしれないが、空虚な気持ちである。

Aqoursが活動していた期間は、私の青春でもある。
Aqoursを応援していなければできなかったこと、気づけなかったことはたくさんあるだろうし、交友関係にも少なからず影響している。人生の岐路が異なっていた可能性もあるのだ。私の人生はAqoursに彩られ、また支えられていた。
この時はいずれ訪れると思っていたが、いざやってくるとなんと言えばいいのか分からない。まだ「活動休止でない」ことで耐えているが、仮にライブで現地参加できたら、心にポッカリ穴が空いて泥人形みたいになってしまうかもしれない。

「Aqours後」の世界が全く想像がつかない。
それほどまでに大事な存在であり、この報がもたらす喪失感も強いのだが、その反面「嬉しい」と思うことがひとつある。

それは「最後まで追えた」ということである。

もう8年前になるのだが。
μ'sファイナルライブ。私は2日目に現地参加していた。

それはもう、人生の中でも最高の日のひとつなのだが、当時ラブライバー歴1年だった私は「もっと長く追えていたら、もっと色々な感情があったのだろうか」という悔いも残っていた。
というのも、私はこの日「楽しすぎた!」と思ったのだが、歴戦のオタクは「楽しかったけど、めちゃくちゃ悲しい」と口々に叫んでいたのである。思い出を共にするだけ思い入れや感情も深くなっていく。μ'sの快進撃を追えなかった後悔は、確かに心の中にあった。

だから、終演後に、

「μ'sが大きな翼で羽ばたいていったあとに、タマゴが遺されている。今はロスがひどいけど……Aqoursを応援して、彼女たちが歩む軌跡を見届けてやるぞ!!」

と、固く誓ったのである。
これ、最近「Aqoursはμ'sの代用か?」などと言われていたが……半分そうで、半分違う。確かに、μ'sでの悔しさを投影した推し方だし、私も割と打算的な考えだったと思う。しかし、AqoursはAqoursの道があり、カーボンコピーでないからこそワクワクできたし、今はμ'sの代わりだと考えることはない。同じようで違う道を歩んできたのだ。

話が逸れたが、8年前に立てた誓いを無事完遂し、フィナーレライブに臨むことができる、Aqoursを見届けられる、という万感の思いもある。
むしろ、私はこのために走ってきた感覚があるため、配信を見た時に少し嬉しかったかもしれない。Aqoursとともにやり切った感が強い。こう言うと変態に思われるかもしれないが…。

これからのAqoursはアーティストとしてはなりをひそめ、おそらく沼津を守る神のような存在になるのだと思う。きっと、帰る場所の沼津、Aqoursはまだある。

悲喜こもごもあるが、ひとまずアーティストとしての終着点を見届けたいと思う。

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