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ひとりごと。


心の中で何を感じ、何を考えるかということと、

自分の考えを言葉を通して表明することは、
同じようで大きく違う。

両者は違う次元の行為として考えるべきだ。


最近の私は、そんなことをよく考えている。


特定の対象の存在そのものや行為に「かわいい」と感じることは、とても衝動的で突発的である。

要するにかなり本能的な感情であって、理性で抑えられるようなものではない。

しかし、「かわいい」と感じたものを「かわいい」と表現していいかどうかは、場合による。

発言者は「愛おしい」と思うその気持ちだけを表したつもりでも、

背景や文脈によっては、「かわいい」は侮辱の言葉になり得るからだ。


なんてやっかいなんだろう。

自分が悪気なくとった言動が、誰かを傷つけてしまう可能性があるものだなんて、
かなりショッキングな事実だ。

罪悪感に苛まれる。

自分の無知だけでなく、感覚そのものを恥ずかしく感じるかもしれない。

想像力にはある程度限界があるけれど、

もっとクレバーな脳みそがあれば良かったのにと、自分を責めたくなる。

現に、私がそうであった。



でも、「かわいい」ものを「かわいい」と感じることを、どう矯正するべきなのだろうか。

そもそも、矯正するべきなのだろうか。

私の気持ちを、感覚を、誰かに否定されるのは、何か、違う気が、する。

こうしたモヤモヤに悩まされたとき、私が思い至った結論(仮)が、冒頭のそれである。

つまり、
「かわいい」と感じることは罪ではないし、否定すべき感覚ではない。

しかし、
それを公衆の面前で「かわいい」と表現しても良いかは、よくよく考えなければならない。

知識や想像力だけでなく、倫理観やマナーの問題であって、

感覚そのものの否定を指す話ではない、のだと思う。

とはいえ、私がそう思いたいだけなのかもしれない。


もう少し考えてみることにする。


(私と同じように、悲しい気持ちになってしまった方に、こういう考え方もあるかもしれないですね、と伝えたかった、ただ、それだけです。)


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