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あだ名

私は昔から、大層なあだ名をつけられることが多い。

同い年の女の子から「おねいちゃん」と呼ばれたり、

「『ちゃん』より『さん』の方がしっくりくるから!」と、

苗字にさん付けをされて呼ばれたり。

高校時代の仲良しには「師匠」と呼ばれていた。


そこまではまだマシで、
「神」やら「仏」やら「菩薩」やら、
もはや人外として扱われることも多い。

どのあだ名も、「人当たりが良い」とか「特段に優しい」とか、

由来はポジティブなもののようだし、

私を茶化して馬鹿にしている風でもなかったので、別に悪い気はしない。

しないのだけど、

そういった大層なあだ名をつけられる度、どこかで寂しく感じている自分もいた。

なぜなら、壁を一枚作られているような気がするから。

同じ場所で、横並びで、私を見てくれていないような気がするから。

それに、私は「神」やら「仏」やらと並べて神格化してもらえるほど、できた人間はない。

むしろ、どこか抜けていて、「ポンコツ」の言葉がふさわしい場面が多い、と自分では思っている。

人から見た私と、自分から見た私とで、かなり大きなギャップがあるようだった。


バイト先の後輩に、

「もあさんが人の悪口言っているところ、見たことないです。愚痴ってないとやってられなくないですか?」

と言われたことがある。

確かに私はどちらかといえば穏やかな性格で、人の悪口も言わない。

でもそれは、実は意識してそうしていたりする。

以前、仕事は早くて正確にこなすけれど、いや、仕事ができるからこそ、

他人の仕事の遅さや不正確さが気になるのか、四六時中「愚痴る」同僚がいた。

ポイントは、「指摘」するのではなく、「愚痴る」ところだ。陰口、とも言えるかもしれない。

その人は、私のことはそこそこ認めてくれていたらしく、
定期的に私を、愚痴を聞かせる相手役にしていた。

私はそれに、肯定もせず、
時々は「そこまでじゃないよー」とやんわり否定したりして、流していた。

同時に、「私もどこかで、こんな風に悪口言われているんだろうな」と、想像していた。

そして、それならば、せめて、人格者でいようと思った。

人格者でいれば、たとえその人にとって、私が「仕事ができない人」として判断されたとしても、

「あの人はいつも優しくしてくれる」とか

「あの人がいると落ち着いて仕事ができる」とか、

職場にプラスの空気を作る人間として、ある程度評価してもらえる気がしたからだ。

それに、ネガティブな発言や行動は、いつか自分にかえってくると思っているから、

わざわざブーメランを投げる必要もないなと考えている節がある。

結局、私は「良い人」に見えるように振舞っていて、

それは自分のためであり、それが本当の自分かといえば、そうでもない気がする。

本当の自分はもっと、気分屋でわがままでせっかちで寂しがり屋だ。

でも、なかなかそういった側面を見せられる他人がいない。

ゆえに、本性と人から見た自分のイメージのギャップは、広がっていく一方である。


ただ、時たま、私の根の部分を見透かしてくる人がいる。

「もあって、意外とポンコツだよね」

そう言われたが最後、私はその人に心を開ききってしまう。

「わかってくれる人がいた!」と、半泣きの状態になる。

(ちょろいですよね、そうなんです、ちょろいのも、私なんです。)

ちょろくてポンコツで、そんな私を知ってもなお、

「それがあなたの良いところだから」

と笑いかけてくれる存在がいることは、嬉しくて、安心する。

気張らなくても、「神」でも「仏」でもなくて大丈夫な居場所を作ってもらえている気がして、本当にありがたく感じる。



私が大好きな7人も、いろんな愛称や固定されたイメージがある。

それらはどれも嘘ではなくて、確かに彼らの大切で愛おしい一部分だ。

ただ、これは想像でしかないけれど、

大層なあだ名をたくさんつけられてきた私と同じように、

ファンや世間から持たれているパブリックなイメージが、彼らにとって負担に感じられる瞬間があったのではないかと思う。

そうやって、キャラクターに沿って振舞うことが楽な場面もあっただろうけど、その逆も、

あるかも不確かな「本当の自分」とのギャップに悩まされたときもあっただろうと思う。

どこか寂しく感じられるときもあったかもしれない。

そんなとき、彼らが彼ららしく振舞える誰かがいれば、空間があればいいなと、願わずにはいられない。

世界のスターとしてではなくて、

友人やそれ以上の大切な存在として受け入れ合う相手がいればいいなと、心から思う。

そういった相手と、笑い合って、たくさん話して、静かな時間を過ごして、

彼らが彼らにかえる瞬間が、一秒でも多く存在してほしい。


私は常に、彼らには「幸せでいてほしい」と願い続けているけれど、

私の願う幸せの一つの形は、きっとこういうことなんだなと、改めて考えている。



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