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言葉の風味を引き出せるようになりたい

さっき初めて知った日本語がある。レシピを見ていたらこう書かれていた。

「すり鉢であたって」

は??と思った。なんとなく「=擂(す)る、ってことかな?」と想像したけれど、あたる、という言葉にそんな使い方があるとは。・・・え。私が常識なさ過ぎ?

「和食用語」というところで、この言葉の説明を発見。

そしてWiki. なるほど、「擂る」を「お金をする」の連想語としての忌み言葉に、と。擂り鉢を当たり鉢とも言うらしい。

知らなかったなぁ。でもなんとなく、そういう経緯というのは理解出来る。日本語って、とにかく言葉遊びというか、そういうのが多い。ある意味言霊を信じているとも言える。

日本語は自分の生活だけ、という環境になって 初めて、言葉の顕す世界に嘆息し絶望し、その一方で言葉ひとつが持つ世界の大きさに感激もした。日常語が英語になってみて初めて、その表現がなぜその範囲の意味となるのか、文化的背景を知りながら心で理解した。

言葉は文化だ、という表現の上っ面しか見えていなかった昔と、沢山の人達の痛みや苦しみや喜びの上にその意味を感じる今と、の差と表現してもいい。

偉そうなことは勉強してから言え、昔の私ならそう思っていた。でも学ぶ上でさえも「文字」では示しきれないものがたくさんある。


言葉の表面では見えないものを知るために人の間をあるいた。書き留めるときに言葉に乗り切らないものは絵にしたり写真にしたりした。音楽が作れたらその表現も加わったのかもしれないけれど、私にはそういう素養がないのが残念だ。

顕しきれないからこそ、言葉遊びが生まれるのだとおもう。顕しきれないものを少しでもそのもどかしさを含めて伝えようとするから ふるい言い回しと言われる言葉や文字を私達は使うのだろう。

あたる、という言葉だけを検索してみる。

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外力などを身(そのもの)が受ける。ここに この言葉を「あてた」理由もありそうだ。そして下の方、「商家で「摺(す)る」「剃(そ)る」を避けて言う。」なんとも文化というか習わしを感じる。願いを感じる。

我が家は商家ではないけれど、いつか子供達がこういう言い回しとその言葉が生まれた背景を知って、なにかのときに使ってくれたら嬉しいなと思った。それは知識をひけらかすのではなく、文化への尊敬の念をこめて、の話。

擂り鉢で擂る、当たり鉢で当たる。

意味もやっていることも同じだが 脳裏に浮かぶ擂り粉木をつかう人達の風景が違う気がする。漂う香りも一緒なのに 会話が違いそうだ。

でも「擂る・当たる」がもつものを「フードプロセッサーで細かくする」では到底得られない。色も香りも食感も、そこでは「擂る」も「当たる」も肩を組んで「細かくすれば良いってモンじゃない」と言ってきそうだ。

言葉も 丁寧に「当たり鉢」であたったら。
いろんな風味や旨味が生まれ混じり合うような気がしてきた。


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